2011年4月24日日曜日

ソニーを音楽・映画の世界へ主導、大賀典雄さん81歳にて死去

The New York Times (オリジナル原文はこちら)
By  THE ASSOCIATED PRESS
掲載日:2011年4月23日
発信地:東京


ある若者で意欲的なオペラ歌手だった大賀典雄さんは、当時のテープレコーダーの品質についての不満をソニーに手紙を書いた。それが彼の人生の進路を変えた。コンパクトディスクを発展させ、日本の一電気メーカーを世界のソフトウェアとエンターテインメント帝国にのし上げた、音楽を愛するその若者をソニーが採用したからだ。

1982年から1995年にかけてソニーの社長、兼会長であった大賀典雄さんは、土曜日に多臓器不全のため死去した。81歳だった。

音楽との関わりは、仕事に繋がった。華やかな音楽愛好家であり、ベートーベンの交響曲第九番の全体を収めるために、75分の価値ある音楽を保持するように、CDを現行の直径12センチ(約4.8インチ)で設計するように主張した。

当初より、CDの優れた音質の可能性を認識していた。1970年代、最終的にはCDがレコードアルバムに代わることを主張すると、懐疑論者たちはあざ笑った。ヘルベルト・フォン・カラヤン、スティービー・ワンダー、ハービー・ハンコックらは、ソニーのデジタルサウンドを支持していた。

ソニーは1982年に世界初のCDを販売し、5年後には日本でCDはLPレコードの販売を追い抜いた。当時の仕様は今でも使用され、それ以来発展的媒体として使われている。

「ソニーを、音響・映像製品を超えて音楽、映画やゲーム、そしてそれに続く世界的なエンターテインメントリーダーに進化させたのは、彼の先見性とビジョンのおかげだと言っても、過言ではない。」ソニー会長兼CEOであるハワード・ストリンガーさんは、この土曜日に日本語で敬語を使って話した。

社長時代になされた会社運営方針は、ハリウッドスタジオコロンビアピクチャーズの34億ドルでの購入など、当時は賢明ではない、高すぎる買い物だと批判されたものもある。しかし、エレクトロニクス事業を活気づけるために、音楽、映画、ビデオゲームに焦点をあてたのは、彼の時代にソニーが成功する原動力のひとつとなった。

「常に、他の企業がまだやっていないことを追いかけている。」1998年のインタビューで語っている。「それが、成功の秘訣だ。」

既成概念にとらわれた、生真面目な日本の経営者の常識を破り、陽気で決して内気にならず、髪はきちっと撫で付けられ、アーティストの激しくまた無邪気な空気を放つ騒々しい作法だった。その性格が、日本がグローバルな野心を持っていた時に、ソニーのイメージアップにも繋がった。

経験豊富なパイロットでもあり、出張の飛行機を自分でも操縦をした。グルメでもあり、自慢はお手製のローストビーフだった。自分のヨットでのクルージングも趣味であった。

ジョイ・カーボーンさんは、ロサンゼルスを拠点に多くの日本のポップソングを手がけている作曲家でありプロデューサーである。ソニーの音楽レーベルで、カセットテープからホンダのスクーターに至るコマーシャルのヒット曲を書いた。

彼がおぼえているのは、ビジネスと同じように自信を持ってさまざまな音楽の話ができ、社交的で国際的な志向の経営者だったことだ。

「俳優のようだった。社交的だった。」カーボーンさんはこの土曜日に語った。「とても、うーんなんて言ったらいいか、内にむかっていないんだ。話し好きだったし、いつも笑顔だった。人生と音楽の本当の愛に包まれていたようだったし、何事も心底好きでやっていた。」

1999年以来、東京フィルハーモニー交響楽団の会長を務め、年に数回タクトを振った。1993年にはソニーが出資したチャリティーイベントで、(ニューヨークの)リンカーンセンターのエイブリーフィッシャーホールでメトロポリタン歌劇場管弦楽団を指揮した。

会社をリードすることと、オーケストラを指揮することを、よく比較した。

「指揮者はオーケストラメンバーの最高な部分をを引き出さなければならないのと同様に、会​​社社長は組織の中で人々の才能を描かなければならない。」1996年、ソニーの出版物の中で述べている。

ソニーは第二次世界大戦後、破壊と貧困の中で始まり、トランジスタラジオで人気を博し、ウォークマン、トリニトロンテレビ、コンパクトディスクといった、現代のエレクトロニクスの歴史を形成した。

1953年に東京芸術大学を卒業、1957年にベルリン大学を卒業した。バリトンオペラ歌手としてのキャリアを目指していたところで、ソニーの共同創業者である井深大さんと盛田昭夫さんが、ソニーのテープレコーダーの音質についての苦情に興味をそそられ、会社に採用しされた。

30代をソニーの幹部として過ごし、日本企業においては非常にまれな存在だった。1970年にCBSソニーレコード社長となり、1988年には後にソニー・アメリカ・コーポレーションの会長、そして1989年にソニーの最高経営責任者の社長に任命された。2000年ごろまで日々の経営業務に携わった。

同社は言う。ソニーのブランドを構築する上で重要だった人物で、消費者に魅力的な製品を作るために、品質だけでなく、特にデザインに力を入れた。

「大賀さんは、先を見据えるリーダーシップで、世界中でエンターテインメントを体験する人たちに多大な影響を与え、華麗な革新的な実業家だった。」ソニーピクチャーズエンタテインメント会長兼最高経営責任者マイケル・リントンと共同会長エイミー・パスカルは声明で述べている。

アーティストとして、そしてソニーの人間として、二重の生涯を送ろうとした。

ある日、"フィガロの結婚"の舞台袖で出番を待っているときに、疲労から居眠りをしてしまったため、あわてて間違った方向から舞台へ出てしまい、共演者たちを笑いで息が詰まるような目に遭わせたことがあった。

オペラの仕事はあきらめたものの、まだ若いミュージシャンやコンサートをサポートすることにより、日本でクラシック音楽の推進に努めた。

ソニーは近年、困難に直面している。薄型テレビでは韓国のサムスン電子のようなライバルに競り負けており、デジタル音楽プレーヤーでのアップル社も同様だ。ユニークさを維持しているのは、ハリウッドスタジオの所有、音楽のレコーディング事情、そして大ヒットで大賀さんも携わったプレイステーションビデオゲームユニットだ。しかし、エレクトロニクスとエンターテインメント部門を共に所有する利点があるのかと不審がり批評する向きもある。

遺族は、夫人のみどりさんである。ソニーによると、個人葬となる予定である。

取材協力:ロサンゼルスAP通信技術ライター ライアン・ナカジマ
(終)

2011年4月23日土曜日

石碑に刻まれていた津波の警告「これより下に家を建てるな。」

The New York Times (オリジナル原文はこちら)  (ビデオはこちら)
By MARTIN FACKLER
掲載日:2011年4月20日
取材地:岩手県宮古市姉吉


石碑は、住民たちが生まれる前からこの森の小高い丘の上に立っている。その風化した表面に刻まれた厳しい警告に、住民たちは忠実に従っていた。「これより下に家を建てるな。」

住民は言う。先祖からの教えのおかげで、日本沿岸の数百マイルを襲いすぐ近くまで記録的な上昇をした凄まじい津波から、11世帯の彼らの小さな村は守られた。

「昔の人は津波の恐ろしさを知り、私たちに警告するための石碑を建てた。」村長のキムラタニシゲさんは言う。

何百もの津波にまつわる石碑には、600年以上経つものもあるが、地震の起きやすい日本の海岸線に点在し、致命的な津波に襲われた過去の被害状況を、静かに証言している。しかし、現代日本では、高度な技術と高い防波護岸が脆弱な地域を守ってくれると確信し、いつしかこれらの先人の警告を忘却し無視するようなった。そうして、3月の津波に襲われた苦い経験を、​繰り返す運命にあるのだ。

「石碑は数世代に渡る警告で、先祖が受けた同じ苦しみを避けるようにと、子孫に受け継がれた。」キタハライトコさんは言う。彼女は京都の立命館大学で自然災害の歴史を専門としている。「そういった教訓に心に留める地域もあったが、多くのものははほとんど無視されてきた。」

一般的な平らな石碑は、高さ10フィート(約3メートル)程度のものもあり、日本の北東海岸に沿ってよく見られ、今回ほぼ29,000人が死亡または行方不明となった3月11日のマグニチュード9.0の地震による津波の矛先を示していた。

石碑の中には、古すぎて文字が摩耗しているものもある一方で、ほとんどの石碑は約100年前の2度に渡り致命的な被害をもたらした津波の後に建てられている。1896年の津波は22,000人が犠牲になった。強い地震の後はすべてを捨てて高い場所へ向かえといった、簡単な警告を記している石碑が多いなかで、過去の犠牲者数のリストや集団墓地を記すことによって、津波の破壊力の凄まじさを伝えているものもある。

3月の津波では流出した石碑もある。科学者の説では、今回の地震は869年の貞観地震以来の最大の地震となり、数マイルの内陸部にまで砂層を及ぼす津波となった。

姉吉の石碑は、具体的に家を建てる場所を示している唯一のものだ。しかし、この地方で使われている地名で、津波から難を逃れた場所であることを示しているのではないかと思われるものがある。Nokoriya or Valley of Survivors (残る谷?)Namiwake or Wave's Edge(波分け?)などがその例で、後者は、専門家の説では、1611年の津波の際に最長到達地点を記しており、海から3マイル(約5キロ)離れた場所である。

地元の専門家たちが言う。姉吉のように先人の警告に留意し住宅を安全に高地に建てるような市町村はほとんどない。概して、終戦後に海岸線の市町村が発展する上で、石碑やその他の警告は無視されてきた。かつて高い場所に移り住んだ自治体ですら、結果的には漁船や漁網に近い海岸線に戻ってきていた。

「時間が経つと、人々は必然的に忘れる。10,000人が犠牲となるような次の津波が来るまで。」岩手県の歴史家であるヤマシタフミオさんは言う。彼は津波に関する本を10冊書いている。

ヤマシタさんは87歳で、寝たきりで入院していた病院が津波に襲われた時に、カーテンにしがみついて生き延びた。彼は言う。日本は、学校で津波の伝承を教えるのを怠ってきた。国は、新たな津波防波堤やその他の現代的なコンクリートの壁を建設する代わりに、その内側に商店を作りすぎた。それらの防波堤は3月の津波では全く役に立たなかった。

それでも、ヤマシタさんや地元の専門家は言う。石碑やその他先人の教えは、津波に対する警戒に広く貢献している。これ以上犠牲者数が増やさないと信じて行う毎年の避難訓練にもそれが伺える。

姉吉の石碑が記しているのは、「高い場所に住めば、我々の子孫の平和と幸せが訪れる。」村長であるキムラさんはこれを碑文と呼ぶ。「我々の祖先からのきまりを、姉吉の村民たちは誰も破らない。」

小さな村の唯一の道路の脇に、4フィート(約1.2メートル)の高さのその石碑は建っている。その村は、海につながる狭く、杉の木の多い谷に位置している。石碑からの坂を下ると、まだ塗装したての青いラインが道路に書かれている。それは今回の津波の到達地点を示すものだ。

先週出た、ある大学の発表によると、3月の津波は姉吉で最高地点127.6フィート(約38.9メートル)に達し、1896年に岩手県内で記録した 125.3フィート(約38.2メートル)を上回った。

塗装ラインのすぐ下では、その谷は突如として破壊された景色と変わる。谷の壁は木々や土壌がはぎ取られ、露出した岩だけを残している。その村の小さな漁港に残されているのは、津波で打ち砕かれた防波堤の巨大な固まりが小さな湾に散らばっているだけである。

キムラさんは、津波で漁船を失った漁師である。彼は言う。この村は、1896年の津波の後、まず高台へ移った。その時は生存者は2人だった。その数年後、人口が増えてこの村は海岸線へ戻ってきた。そして1933年の津波に再び襲われ、その時の生存者は4人だった。

そして村は高台へ移り、その石碑が建てられた。キムラさんは言う。誰がその石碑を建てたのかは、34人の村民の中でも今では誰も知らない。石碑のおかげで、1960年の津波からも村は救われていると村民たちは信じている。

「あの石碑は、来たる100年のうちに、また津波がやってくることを子孫たちに警告する一つの方法だった。」キムラさんは言う。

今日の日本人にとって、石碑は過ぎ去った時代の遺物で、書かれている言葉は時代遅れの不可解なものに映るかもしれない。しかし、専門家らは言う。その石碑のおかげで、日本人たちが津波に対する警告塔としての新しい記念碑を造ろうとしている。このインターネットやテレビの視覚的な時代に適した方法によるものだ。

ひとつの考えとしてある研究者グループは、この津波の破壊力を忘れないように、津波で損傷した建物をいくつかそのまま保存することを求めている。核戦争に反対する広島の原爆ドームのような考えだ。

「我々には、現代版の石碑が必要だ。」盛岡の岩手県立博物館の地質学者である、オオイシマサユキさんは言う。

姉吉村は生き延びたが、住民たちは残念ながら喜べるムードではない。4人の村民が、先月死亡したのだ。母親とまだ小さな子供3人が、隣町で車ごと津波にさらわれたのだ。

母親の名はアネイシミホコ、36歳。地震の直後、彼女は学校にいる子供たちを連れ出すため慌てて学校へ向かった。そして彼女は、間違えて海抜の低い場所を通って村へ戻ってこようとしたその時に、ちょうど津波が打ち寄せた。

村の高齢化した住民たちは言う。いつも高いところ、高いところと津波を生き抜く基礎を、もっと今の若い人たちに教えるようにもっと努力するべきだったと後悔している。

「我々の先祖を誇りに思う。」犠牲となった子供たちの祖父、69歳のアネイシイサムさんは言う。「でも石碑も、すべてから私たちを救うことはできません。」
(終)

2011年4月20日水曜日

外国人労働者に対する高い障壁を固持する日本

The New York Times (オリジナル記事はこちら)
By HIROKO TABUCHI
公開日:2011年1月2日
発信地:柏(日本)

(本文)
マリア・フランシスカさんは、インドネシアからの勤勉で若い看護師で、日本における高齢労働力を補充するために必要と思われる労働者のひとりだ。

しかし、フランシスカさんは26歳、日本への滞在のために戦っている。東京郊外の病院で働く彼女は、3年間の滞在期間の延長をするために、日本語で標準看護試験に合格しなければならない。その試験はとても難しく、2007年以来インドネシアとフィリピンからの看護師600人の受験者のうち、たったの3人しか合格していない。

そのため、フランシスカさんは、病院での仕事に加えて毎日8時間を日本語の勉強を費やす。彼女の辞書は数えきれないほどの辞書引きでページの隅が折れてしまっている。でも彼女は決心を固めている。彼女の初任給であるの月2,400ドルという金額は、インドネシアで稼げるお金の10倍に相当する。でももしだめだったら、同じプログラムで日本に再度戻ってくるチャンスはもうないだろう。

「私は、ここで何かできることがあると思う。」フランシスカさんは言う。取材時、彼女は仕事中で、脳卒中から回復した80歳の患者のムラマツヘイイチさんの口へご飯や野菜の食事を運んでいるところだった。「もし、試験に受かれば、日本に長く滞在したいと思うけど、簡単じゃない。」

日本は、人口の高齢化に伴い労働力不足に直面しているにもかかわらず、移民に対してほとんど門戸を開こうとはしていない。実際、フランシスカさんや似たような立場の人たちは、次第に判ってきている。政府は、実際は逆向きのことを行っており、小さな利益団体を保護しながらも、外国人労働者や大学や専門学校の外国人卒業生には、積極的に帰国を奨励している。フランシスカさんの場合には、地元の看護協会が、外国人看護師の流入により業界の給与が下がることを恐れているのである。

2009年、外国人登録者数は政府がほぼ50年前に年次数値を取り始めてから、初めて減少した。前年比1.4%縮小し219万人で、日本の総人口の1億2,750万人のたったの1.71%であった。

専門家は言う。移民の増加は、日本のこの20年に渡る無気力な経済成長に対する一つのはっきりとした治療要因となる。しかし、若年労働者を受け入れることや移民労働者と斬新なアイディアとともにやっていくことよりも、国の経済成長を妨げ、慢性的な財政赤字に対処するための努力を妨げ、社会保障システムを破産させる、この日本人口の危機に対して、東京都自身がすでにあきらめているようである。

「もしあなたが医療分野にいるのなら、日本が生き延びるためには外国人労働者が必要なことは明らかです。しかし、まだ抵抗がある。」とシンタニタカヨシ氏は言う。彼は東京郊外の病院で働くフランシスカさんをはじめ他の3名の看護師を後援している医療サービス会社の会長である。「その試験は、外国人たちが不合格になるのを確認するためのものです。」と彼は言う。

Tan Soon Keongさんは、英語、日本語、北京語、広東語、福建語の5カ国語を話す学生で、工学の学位と母国のマレーシアでの3年間の実務経験を持っている。グローバル化を目指す日本の企業らにとっては、重宝がられる実績がある。

それでも、と彼は言う。来春東京郊外の大学での2年間の技術的なプログラムを終えた時に、日本で仕事に就けるかどうか自信がない。一つには、新卒者として雇用するには年齢の上限を設ける会社が多いこと。26歳というのは、ほとんどの会社で相手にしてもらえない。今年は外国人を採用していない、と皆が言っている。

Tanさんだけではない。2008年、日本の大学や専門学校を卒業し就職できたのは13万人のうちでたったの1万1千人だけだった。この数字は就職企業毎日コミュニケーションズによるものである。日本の企業がもっと事業のグローバル化を図ろうと、さらに外国人を雇用すると公表している一方で、まだまだそういった企業は少数派に過ぎない。

「私はマレーシアへ帰らなければならない覚悟はできています。」Tanさんは先日の東京で開催された外国人学生のための就職説明会で言っていた。「トヨタみたいな会社で働くのが理想です。」彼は言う。「ただ、非常に難しい。」

日本は業界の熟練した人材を失っている、と専門家は言う。投資銀行は、例えば、香港やシンガポールのような拠点に、より多くの職員が移動している。より多くの外国人に馴染みやすいな移民政策や課税制度を持ち、安い居住環境やより良い英語を話す地域人口を有しているからである。

在留資格のための新しい申し込みを提出した外国人は、(在留資格には特殊技能の職業を必要とするため、高度熟練労働者の重要な指標であるが)は1年前の2009年から49%下落し、わずか8,905人であった。

日本への移民への障壁は多い。制限の多い移民法のために、国が労働力不足に直面している農場や仕事場と外国人労働者との接触の機会がなく、途上国からの労働者に対する研修プログラムが悪用されるケースや、不法移民を助長するケースもある。厳格な資格要件は熟練した外国人職人を閉め出し、一方では、複雑なルールや手順を必要とするウェブサイトのために、日本での起業を考えてもなかなか実現していない。

求人や景気の今後の見通しがはっきりしないため、大学も外国人留学生の登録人数を引き上げることができないでいる。そして、現在の厳しい経済情勢の中で、地元の収入が減り、日本人の大学新卒の就職が困難な状態で、このような微妙な話題を切り出すほどの政治的な意志も乏しい。

しかし、日本の人口体系はどんどん変化している。政府の予測によると、日本の人口は50年以内に9,000万人と現在の約3分の1が減る。2055年までには、3人に1人は65歳以上となり、労働年齢人口は5,200万人と3分の1以上の減少となる。

とはいえ、政権を譲った自民党の重量級のひとりが、2008年に少なくとも1,000万人の移民を受け入れる声明の計画を発表したとき、世論調査では、大多数の日本人が反対していたことが明らかになった。朝日新聞で行った約2,400人の有権者に対する今年の初めの調査では、回答者の65%がよりオープンな移民政策に反対していた。

「人口減少は最大の問題です。国がその存続のために戦っている。」サカナカヒデノリさんは、日本移民政策研究所、独立した研究組織の責任者である。 「アメリカは、何よりも先に、世界中から人々を引き付けるため、活気に満ちた国づくりに努めている。」と彼は言う。 「一方で、日本は、海外からの人々を閉め出すことに満足している。」

さらに悪循環なのは、日本の経済的苦境のために、移民政策進展や移民サポート不足と結合し、ここを定住した貴重な数の移民の流出を引き起こしている。

サイトウアキラさん、37歳で日系ブラジル人で20年前にサンパウロから豊田市(愛知県)にやってきた。彼は日本を離れるつもりの外国人労働者である。一連の工場労働の後、始めた小さな自動車修理工場もうまくいかず、奥さんのTiemiさんを働かせている衣料品店も間もなく閉店する予定だ。3人の小さい子供は地元のブラジル人学校に通っているが、残っているブラジル人生徒は僅かである。

サイトウさんと同じようなブラジルから来ている人たちの多くは、この世界的な経済危機の余波で職を失い、今のところ政府の支援も十分ではない。一部の地域では失業した外国人労働者に帰国を奨励することを意図した議論すべき政府主催のプログラムから、資金をまきあげているケースも散見される。

サイトウさんは話す。「わたしは、うまくいくと思って日本に来た。でも最近は、ブラジルへ帰ったほうがうまくいくんじゃないかと感じる。」

日本は第二次世界大戦後の数十年の間、かなりの人数の移民を受け入れてきたが、製造業や建設業のような産業に労働者を供給する方法として、移民制限を緩和するように実際に政府に圧力をかけるような、1980年代の日本の"バブル経済"の始まりまでは、続かなかった。

続いて起きたのが、政策立案者が国の民族同質性をそのまま維持することを考え、移民法の改正したことだ。1990年、外国人に対し日​​系人専用のビザを発給し始めた。前世紀に、生きるチャンスを求めてブラジルに移住した、日本人の子孫のような外国人に対してのものだ。1990年代には、サイトウさんのような仕事を求めて来日する日系ブラジル人の数が急増した。

しかし、政府は外国からの移民人口を日本の中に統合することはしなかった。例えば、外国人の子どもたちには義務教育を免除し、一方では非日本語圏の子どもたちを受け入れる地元の学校に対して、学校として彼らの教育に必要なことに対する行政的援助は全くない。支援者は言う。多くの移民の子供は脱落し、豊田市の多くの外国人労働者はブラジルに帰りたいと言っている。

「日本は移民と地域社会との強いつながりを構築しない。」豊田市で移民の子供たちのための学校を運営するノモトヒロユキさんは言う。

この国は、その最先端技術、そのポップカルチャー、そしてその発展した消費社会が提供する表面的な無限のビジネスチャンスを十分理解できるような人たちにとっても、魅力を失いつつある。

「日本を訪れる人たちは東京へやって来て、そのようなハイテクやカラフルな都市を見物する。彼らはこの輝きを彼らの目で捉え、ここへ移り住みたいと言う。」2005年以来、日本に住んでいるアメリカの起業家のTakara Swoopes Bullockさんは言う。「但し、ここで商売を始めるのは全く別の話。みんな、わけが分からずに逃げ出していく。」
(終)

参考ニュース:「看護師・介護士 来日辞退相次ぐ」4月18日 NHKニュース

2011年4月19日火曜日

東京電力ー不可解な多額の海外からの株取引に規制当局の関心高まる

The New York Times (オリジナル原文はこちら)
By KEITH BRADSHER
掲載日:2011年4月18日
取材地:東京

日本の規制当局と東京電力の幹部は、2週間前に起きた多額の非公開の買い手による、一連の順序だてられたように見える株取引について調査を依頼している。

規制当局は、6億ドルに及ぶ4月3日の週に香港で行われたこの取引が、株主を特定する開示書類をファイルするために、上場企業の5%以上の所有者を必要とする日本の証券法を回避するために仕組まれたのかどうか確認を急いでいる。

買い注文が実行された価格によっては、この取引は東京電力の株式の10%近くまでに及ぶ可能性がある。

この取引と取り巻く問題は、ここで行われたインタビューで、別会社の上級幹部の説明によるものだ。幹部は、企業と政府のつながりを保護するために匿名性を主張している。

規制当局はまた、中国政府又は他の国が購入資金を調達するためするのソブリンウェルスファンドを利用しているかどうかという調査も非公式に行っている。しかしながら、ヘッジファンドによって行われている可能性もあると、幹部は言う。

「彼らは、誰が取引をしたのかを突き止めるため、本当に強力に迫ってきています。」幹部は規制当局のことを言う。「クジラの場所を掴み、必須開示をファイルする必要がないそういったやり方を仕組んでいる、誰かがいる。」

ハセガワヒロさん、東京電力のスポークスマンはコメントを避けた。

その取引は、原子力事故が東京電力を金融災害で脅かしていたと思われる時に起きている。慌てた投資家は東京電力の株式を放棄し、5分の1近い株が毎日売られ、株価は292円まで下落した。地震前は2,100円あたりを着実に推移していた。

今、最悪の事態が過ぎ去ろうとしたかに見えたところに、強い余震とさらなる津波の可能性が懸念されている。

水素爆発が止まり、汚染水の排出を停止し、ロボットが原子炉棟に入り長期的な修理の可能性を探っている。

政府当局者は、売上税や電気の国家課徴金などによる対策費用の方法について話している。東京電力の株式は、月曜日に東京で467円まで回復した。

さて、こんな時に勇敢にも東京電力の株を買うのは誰だ。

ハラヒロユキさん、日本の証券取引等監視委員会の関係者で、委員会は、特定のケースや調査についてはコメントできないと述べた。ただ、委員会は、3月11日災害後の混乱の中で市場の動きのチェックを強化していたこと、市場操作やインサイダー取引の指摘を含めて行っていたと話した。彼は調査が公開されたかどうかについては明言を避けた。

サトウカズシさん、大蔵省の外貨部の関係者は、もし、ある外国人投資家が国家安全保障上の資産の10%を超える所有権を、日本の金融当局に内緒で追求していたことが疑わしいのであれば、調査が行われるだろう、と話す。そうしなければ、違法行為となる。このような調査が東京電力株に公開されているとは思っていなかったと話す。

経済、産業、日本の公共事業企業で外国からの投資を統括する、日本の総務省国際投資部門の関係者は、彼が東京電力株式の取引の捜査を認識していなかったと述べた。

香港、東京の6人の銀行関係者は、この株式購入についての質問に対し、その件は聞いているがその背後に誰がいるのかはわからないという回答がうち2人からあった。他の4人は、この件は何も聞いていたと述べた。

取引記録によると、投資家たちは、福島第一での事故による東京電力の責任を恐れて、4月3日の週に東京電力の数百万に及ぶ株式を放棄したことを示している。会社株式の5分の1近くの12億ドルの株が4月6日に売却され、10分の1以上の株がその週のうちに売却された。その後、出来高は次第に落ち着いた。

世界最大の銀行たちは、すべて香港にオフィスを構えている。そのため、香港からのオーダーとは言っても香港にある会社、投資ファンドや個人からのものではない可能性がある。

日本の当局は、商業的な問題で中国​​の関与を求めるために動きが迅速だ。特に、昨年秋に、中国が東シナ海の島領有紛争中に日本に重要な希土類鉱物(レアアース)の出荷を2ヵ月間の禁輸措置を課した後だからだ。

しかし、銀行関係者は、中国投資法人である同国のソブリンウェルスファンドは、大規模な利害関係をもつ取引ではなかったようだと話す。中国投資は、論争の的の買収を避ける傾向にある。ソブリンウェルスファンドは、月曜日にはコメントを控えた。

日本でこのような著名な企業が崩壊するとは考えていない日本の金融機関があるとすると、ある買い手がその金融機関になるかもしれない。

ビジネスリーダーたちは、東京電力の完全国有化についての推測には反対してきた。東京電力は長い間、日本の優良企業の中でも、最優良企業とされており、ビジネスグループの中心的な役割を果たしているからだ。国有化は、2週間前には可能性があるように思えたが、その後の政治的対話からは聞こえなくなっている。
(取材協力:タブチヒロコさん)