2011年11月7日月曜日

ニューヨークシティマラソン、車椅子部門での優勝者とレース記録(男子では日本人が1位と3位)

New York Times, On the Run - A Blog About the New York City Marathon
掲載日:2011116
By JOHN OTIS

日曜日に行われたニューヨークシティマラソン、車椅子部門において歴史が作られた。ソエジママサズミ(副島正純)選手が、男子の車椅子部門で優勝し、すべてのマラソン大会を通じて初めての日本人優勝者となった。記録は1時間3141秒で、ニューヨークシティマラソンでのベストタイムである。副島選手のこれまでのベストタイムは、昨年出した1時間3731秒。これは2秒差でデビッド・ウィアーに次ぐ2位となった時のものであった。
女子の車椅子部門では、アマンダ・マグロリー(イリノイ州シャンペン)選手が1時間5024秒でコース記録を叩き出し、優勝した。
41歳の副島選手は、この優勝を日本の東北地方の子供たちに捧げたいと言う。3月の震災と津波、そして引き続いて起きた原発事故で影響を受けた子供たちである。3月の震災が起きた時、副島選手は、ボストンで、ボストンマラソンに向けてのトレーニング中であったが、そのボストンマラソンでは優勝している。テレビで繰り広げられる日本での惨状を見るのは辛かった、と副島選手は言う。「私は、日本を励ますために何ができるか、ずっと考えてきた。」副島選手は、ニューヨークシティマラソンの5回目の挑戦で掴んだ勝利の後、話した。「今年勝つという約束をしたが、それが果たせてうれしい。」
自分に対する励ましとして、副島選手は東北地方の子供たちが寄せ書きした「きっと勝つ!」という旗を持ち歩いていた。
オーストラリアのカート・ハーンレー選手は、2006年にニューヨークでコース記録を出しており、4年連続でここニューヨークで優勝してきたが、今回は2位であった。記録は1時間3356秒であった。日本のホキノウエコウタ(洞ノ上浩太)選手は、1時間3421秒で3位となった。
女子優勝者のマグロリー選手は、2006年にもここで優勝しているが、2007年にエディス・ハンクラー選手が出した1時間5238秒のコース記録を、今回、2分以上も縮めた。「車椅子のマラソンコースでも、ニューヨークは、最も過酷なコースで、最も過酷なレースだ。」マグロリー選手は話す。「だから、ここで勝ったことは大きい。」

2011年8月29日月曜日

最初の日系アメリカ人追放を偲ぶ記念碑

The New York Times (オリジナル原文はこちら) (スライドショーはこちら)
By KATHARINE Q. SEELYE
201185
発信地:ベインブリッジ島、ワシントン州
フランク・キタモトさんは、まだ2歳だった。日本が第二次世界大戦で真珠湾を爆撃し、彼と彼の家族、そして270人以上日系人が、強制的にこの森林に覆われた島から退去させられ、収容所に送られた時のことである。キタモトさんは、現在72歳。彼は、若い頃を、自分のアイデンティティについて深刻に悩みながら過ごした。日本の伝統を恥じ、彼が白人だったらと願っていた。他の若い男たちは、日本人の特徴を隠すために整形手術を受けるようにまでエスカレートした。自殺した者もいる。

「私は、ここが平等と自由の土地で、差別などが起こるはずがないと、子供の頃には思っていた。」キタモトさんは、その後、歯医者となり、先日その事務所で話を伺った。その事務所には、壁一面が当時からの写真で覆われていた。「だから、私に何か問題があったからだと思った。私は悪い人間だった。」

土曜日に、キタモトさんは 、元囚人、その家族、ベインブリッジの住民や観光客を含めた何百人もの人たちと一緒に、 当時のことを思い出すだろう。アメリカ市民たちが適正な手続きなしに、米国政府によってその民族性を理由に自分の家から追放され、監禁された時のことを。小さな入江の港では、湿地と古い杉林の中で、彼らは、政府が後になって認めたことが、アメリカの歴史の中で最も恥ずべきエピソードの一つであったことを記す記念碑を捧げる。その碑の目的が青銅の文字で(日本語で)刻まれている。「二度とないように、それが再び起こらないように。」

これが最後かもしれないと、集まる人たちがある。ハヤシダフミコさん、キタモトさんの叔母であり、兵士によって検挙された時には彼女は31歳で、現在は99歳か100歳であるが、実は記録がはっきりしていない。ベインブリッジ出身で生き延びた最高齢の囚人である。

シアトルポスト、インテリジェンサーによる彼女の有名な写真は、抑留を象徴するものとなっている。そのカメラは、1942330日、生後13ヶ月の娘のナタリーを抱いている彼女を捉えている。不似合いなスタイリッシュな帽子が彼女の頭の上にかぶせられ、識別タグは、ふたりのコートから吊り下げられている。まるで荷物であるかのように彼らは札を付けられて、それらは出荷の準備がなされた。

ベインブリッジは、退去させられた日系アメリカ人の一番最初のグループが住んでいた場所であり、戦後の帰還の際、歓迎されて迎えられた数少ないコミュニティの一つであった。島から出された277人のうち、150人が戻ることができた。そして、約90人は、今日まだ生存し、20人はまだここに住んでいる。

真珠湾攻撃を受けた過剰反応の中で、政府の多くの高官たちは、日系アメリカ人たちを、米国に対する潜在的な工作員や共同研究者として見ていた。1942年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、軍事施設の近くに住む日系アメリカ人を退去させる行政命令を発した。この碑は、ベインブリッジ島日系アメリカ人排除記念碑と呼ばれている。その碑には島の277人の日系アメリカ人すべての名前が刻まれ、その3分の2はアメリカ市民であったが、それから3年の間、島から退去させされた。

新鮮な杉の香りが、蛇行する壁面から、漂っている。この記念碑は、小さなフェリー乗り場近くの8エーカー(32)を占めている。ここは、固定された銃剣とライフル銃を身につけた米軍兵士が当惑していた島の日系アメリカ人たちを集めた場所である。退去の準備にはわずか6日間しか与えられず、彼らは着の身着のままでどこへ行くのかも知らされてはいなかった。

兵士たちは、橋を渡り、シアトル行きフェリーへ彼らを連れて行き、シアトルから3日間、列車に乗った。彼らが町を通り抜ける間、列車の窓は暗く遮られていた。そして、列車から乗り継いだバスが辿り着いたのは、カリフォルニアの砂漠にあるマンザナール強制収容所であった。約1年後、キタモトさんの家族を含めた多くの人々は、シアトル地域からの他の囚人たちが収容されたアイダホ州南中央部のミニドカ強制収容所への移転を求めた。彼らは戦争の間、そこで過ごした。

キタモトさんの姉妹の一人である、当時7歳で、現在76歳であるリリー・キタモト・コダマさんは、収容所でのものすごい風と砂嵐を思い出す。しかし振り返ると、政府が「これを成し遂げることができたかもしれない」ということにとても驚いた。」と彼女は話す。太陽が降り注ぐベインブリッジ島の歴史博物館の木製のベランダに座り、彼女はそこでボランティアをしている。

戦争が終わっても偏見は消えなかった、と彼女は言う。彼女は、シアトルにある店舗の販売員たちが彼女の家族に対して用を聞くことを拒否したので、シアーズローバックのカタログを使ってすべてを注文しなければならなかったことを思い出す。彼女は、夕食でマッシュポテトを食べたと人々に言うことで、「私がアメリカ人であることを証明しようとした」が、実際は、彼女はビーチへ行って、海藻を集めていたと言う。

「今では」彼女は笑いながら言う、「シアトルからのフェリーで寿司を販売している。」

全体では、政府は、アメリカ西部のほぼ全ての日系アメリカ人12万人を、主要10収容所と多くの小規模の拘置所に投獄した。戦後数十年経ってから、救済運動の一環として、それまでは彼らの過去に対して注意を喚起したくなかった生存者たちが、その経験について話し始めた。

その動きは、1988年に頂点に達し、ロナルドレーガン大統領は、国家として謝罪し、最終的にそれぞれの遺族に対して、手紙と2万ドルが送られた。(議会は、返還のために3,700万ドル充当した。1983年のドル計算では、損失した総所得と総財産が20億ドル近いと推定されたものの。)

それ以来、様々な口述での歴史プロジェクト、セミナー、モニュメントは、主にアメリカ西部で広がっている。新しい案内センターが、ワイオミング州のかつてのハートマウンテン収容所だった場所で今月後半にオープンすることになっている。

ここベインブリッジでは、追悼碑に加えて、個人的グループやパブリックグループが10年以上に渡り計画されているものもある。歴史博物館では、アンセル・アダムスによるマンザナールでの受刑者の写真のコレクションが展示されている。博物館では、1883年からのこの島での日系アメリカ人の歴史をたどる展示もされている。

ベインブリッジ島が独特なのは、追放される人々の第一陣の乗船ポイントだったということである。政府は、テストケースとして、島の少ない人口を利用し、大人数の再配置を行うことができるかどうかを確認したのである。ベインブリッジ島での検証は、アメリカ西海岸南北における強制収容のモデルとなった。

ベインブリッジはまた、日系アメリカ人が島の組織の一部として何十年も住んでおり、珍しい場所でもあった。彼らは最初、1880年代にやって来た。イタリア人とハワイ人達と一緒に、木材の工場で働き、そしてイチゴ畑を耕作した。子どもたちは一緒に学校に行った。

島民の中には、ウォルト・ウッドワーズと彼の妻のミリーがいて、地元紙、ベインブリッジレビューを発行していた白人のカップルであった。彼らは、民族排除に反対する発言をする編集記事を載せていた。収容期間中、ウッドワーズは、彼らの投獄特派員からのニュースを伝え、結婚、出生と死亡情報に加え、キャンプの状況を詳述した。その新聞は、戦後になって、国民の認識を受けるようになった。そして1994年、デビッド・グターソンの本「ヒマラヤ杉に降る雪は」では、ウッドワーズに触発された登場人物を配し、一般市民に彼らの物語をもたらした。ベインブリッジは、囚人たちの帰還を歓迎し、彼らの生活の立て直しに尽くした数少ないコミュニティの一つであった。

キタモトさんは、それは追放された人々と同様、その帰還を受け止めてくれた人々に対し光栄に思いながら、記念碑を眺めた、と言った。

自分が寛大にならずして、自分の人生とともに歩むことはできなかったと分かるようになったと、彼は話した。しかし、彼は、9/11のテロ攻撃以降のイスラム教徒に対する差別により、彼の不安が再燃している、と述べた。

「イスラム教徒に起こっていることは、私たちに起こったことと非常に似ている。」と彼は言う。「我々が、起こる出来事に対する我々の反応を不安がらせないようにするまで、それは続くであろう。」

彼の叔母、ハヤシダ夫人は、小柄で活動的だが、今でははほとんど憤りを抱いていないようだ。「我々は敵のように見えた。」彼女は説明する。今住んでいるシアトルで、くつろいだリビングルームに座りながら。「そして、私は、頼るべき政府を信頼した。少なくとも家族はいつも一緒であった。私は困惑していたが、私はルールに従った。」

彼女の娘、ナタリー・ハヤシダ・オングさんは、70歳で、テキサス州に住んでいる。救済の動きが始まって以来、有名な写真は彼女の母親の経歴を象徴するものになっていた、と言った。「彼女は、誰でもなく、しかし、彼女は皆を表現していた。」オングさんは言う。

ジョン・ポール・ジョーンズ、ここに住み記念碑を設計した有名な建築家である。彼は、順調に流れていた生活が突然の追放により妨害された生活の感情を捉えようとし、その衝撃を急激な断層によって表していると、話した。

「私は、アメリカインディアンであり、母国から遠く離れている心情を理解する。」ジョーンズさんは言う。「この記念碑は、彼らが失ったものために称えるための場所だと考えている。」

(終)

2011年8月24日水曜日

立ち入り禁止となる日本の原子炉近くの広域


The New York Times オリジナル原文はこちら
2011821
By MARTIN FACKLER 
発信地:東京

政府の調査で安全なレベルをはるかに超える放射能汚染が発見されたため、おそらく数十年の間、被災した福島第一原子力発電所の周りの広い地域では居住できないという宣言をすることが、いくつかの主要メディアにより明らかになった。

近日中に予想される政府から公式発表は、3月の事故から、強制的に原発周辺地域の長期的非居住化を進めることへの初めての公式の認識であり、科学者らや一部の関係者らが数ヶ月間にわたり警告してきた事態である。議員たちが週末に話していて、主要新聞が月曜日に報道していたのは、菅首相が原発のある福島県を訪問することを予定しており、土曜日の出来るだけ早くに住民に直接ニュースを伝えようとした。今回影響を受ける区域は、原発から12マイル(20km)以内すべてで、事故後に直ちに避難した地域である。

政府は、期限なく自宅に戻ることが許されないことを、住民たちを伝えることが予想される。また、それにより補償計画の策定が開始される。とりわけ、今住めない土地を借りることが問題である。政府がこの居住制限がどれ位長く続くのかに言及するのかどうかは不明だが、報道ではそれが何十年に渡る可能性が示されている。それは、1986年の事故後のウクライナのチェルノブイリ発電所周辺地域と同様の事態となっている。

福島の事故以来、避難問題は、政府にとって敏感な話題となっている。その政府は、公衆衛生への潜在的な危険性にもかかわらず、災害の程度を認めるのが遅いこと、影響を受けた地域の大きさを狭めようとすることで批判されている。今まで、東京では、来年早々には原発周辺のほとんどの地域での現在の避難命令を解除されるだろうと言われていた。来年早々というのは、作業員が損傷を受けた福島第一の原子炉を安定化することが予想される時期だからである。

政府は、科学教育省の調査の結果、明らかにその計画の変更を余儀なくされた。その調査結果は、週末に発表され、原発周辺の12マイル(20km)避難ゾーン内では、予想よりも高い放射線レベルを示した。汚染が最も深刻な場所は、原発から約2マイル(3.2km)南西に位置する大隈町にあり、年間、放射線の508.1ミリシーベルトにさらされることが予想され、今まで政府が安全と考えていた年間20ミリシーベルトのレベルをはるかに超えている。

調査では、上記の放射線の安全なレベルは、原発から12マイル(20km)以内の36地点で確認された。実際に原発が安定した後でも、どれぐらいの住民が自宅に戻れるようになるのか、という疑問も出てくる。

311日、マグニチュード9.0の地震とそびえ立つ津波によって損傷した原発周辺地域から避難したのは、約8万人の住民であった。それらの住民の多くは、現在、仮設住宅や仮設避難所に住んでおり、つかの間の自宅は、防護服を着用義務による厳重な監視下での訪問で許されるだけである。

(終)

2011年8月8日月曜日

原発反対に参加する原爆生存者たち


The New York Times (英語原文
By MARTIN FACKLER
201186
発信地:長崎 日本

1945年、ヒロセマサヒトさんは、この街全体を焼却し、彼の叔母を鼻や歯茎からの出血や激しい痛みを伴いながらゆっくりと死に追いやった、原爆の白いキノコ雲が上昇するのを見た。それでも、ここそして広島の攻撃の生存者たちと同様、彼は静かに、日本の戦後の原子力に対する信奉を受け入れた。原子力が安全で、且つ、国家の経済的台頭のために必要だったという政府の保証を信じてのことである。

ただ、それは、日本の東北地方の福島第一原子力発電所における今年の災害で、生存者たちが昔の悪夢に再び直面するまでのことだった。何千人もの一般市民が、放射線にさらされた。核技術の致命的な障害で仰天し、最近のタウンホール形式の会議で政府と電力業界が原子力推進派を植えつけたという暴露に激怒した、高齢者の被爆者たちが、数字においては少なくなっているものの、原子力発電に対する反対運動を初めて行っている。

そして今、広島と長崎の両都市が第二次世界大戦の終わりのアメリカの原爆投下から66年を迎えるにあたり、被爆生存者たちは、この独特の道徳的地位を使用できることを願っている。核爆弾の唯一の犠牲者として、人類の悲劇が発生しやすい原子を活用するための努力という考え方から、日本と世界の両方を引き離すために。

「放射線の危険性についての警告を、世界に対し、繰り返し与えることが、日本の運命なのでしょうか?」81歳のヒロセさんは言う。アメリカの原爆が長崎のほとんどを抹消し、瞬時に約40,000人を殺害した時、彼は中学生であった。「私たちが、もっと早くに原子力に対して発言する勇気を持っていればよかったと思う。」

しかし、ここ長崎ですら、口外することは、簡単ではなかった。原子力は、日本の戦後の復興、つまり荒廃からそして経済発展に向かう強行軍に没頭していたコンセンサス主導型の国における困難な状況に挑むために、必要であったのであろう。彼らの姿勢はまた、過去の過ちを繰り返さないように向かわせたある国において、いくつかの歴史的意味を成していた。資源の乏しい日本にとって、1941年に戦争を始めた理由の一つは、新しいエネルギー源を確保することであり、その時は石油であり、アメリカの経済封鎖の後であった。

現在でも、エネルギー安全保障のために国家が共有するビジョンに忠実な圧力は強い。

広島が原爆の記念式典を行った際、この原爆では少なくとも7万人が死亡したが、その土曜日に、広島市長は、原子力発電の終焉を求めるには至らなかったが、原発に対する意見が分かれていることに言及した。

「人類が核エネルギーとは共存できないという信念と共に完全に原子力発電を放棄したいと言う意見があり、一方では、原子力の規制強化とより多くの再生可能エネルギーを要求する意見がある。」マツイカズミ市長は言った。

日本の報道によると、この市長は、若すぎて原爆を目撃しておらず、福島の事故をきっかけに、より強い文面を作ると考えられていたが、事業グループによる反対に直面し引っ込めたという。

そのような不本意な発言であったので、原爆生存者による強い姿勢は、さらに印象的なものになった。先月、被団協が、民間の原子力発電をなくすことを、日本で初めて訴えた。5万人の生存する被爆者団体である。来年の行動計画では、この団体は、新しい原子力発電所の建設を停止と、代替エネルギーが発見され次第、日本の現在の54原子炉の段階的廃止を呼びかけた。

団体は、1956年の設立以来、核兵器廃絶の声を提唱してきた。しかし、その声は、現在の原発問題までは聞かれなかった。日本は、ウクライナのチェルノブイリで数十年前の事故や、多くの西欧諸国に対し原子力事業拡大計画を棚上げにさせたペン​​シルベニア州のスリーマイル島での事故の後ですら、続行し続けた。

「官僚、業界、そしてメディアたちは、原子力の危険性に対して、我々の目をふさぐことができた。」ヤマダヒロタニさん、被団協長崎支部の事務局長は語った。「我々が、彼らに私たちをだますことを許した。原爆の犠牲者となったこの国で。」

ヒロセさんは、長崎の原爆で彼の叔母を失った。彼は、福島での災害の後、原子力発電に関する団体の変化において主導的な役割を果たしてきた。

彼は、福島原発からの放射線にさらされる人々を襲う恐怖を深く理解していたので、左右された部分もあった。彼の弟は、原爆の20年後に死亡した。30代で、6種類の癌に苦しんでのことである。

皆、まだ生きていて、「彼らは、放射線の恐怖の生きている証言者である。」と彼は言った。

ヤマダさんは、日本の原子炉が世界でも最高で絶対に​​安全であることを、政府、産業界、そして報道機関により提唱され、それを信じたために、多くの被爆者は、他の日本人のように原子力発電を受け入れた、と述べた。この「安全神話」により、今では頻繁にそう呼ぶようになったが、日本の当局は、スリーマイル島やチェルノブイリに対する懸念を取り払うことができ、それらの事故は乏しい技術や無能な工場労働者によって引き起こされた、と伝えた。

被爆生存者には、その安全神話から解放されるためには福島で起きた災害の大きさが必要だった、と残念ながら認める人もいる。

「皆は、原子力発電は、原爆とは違うと確信していた。」ヤマダさんは言う。長崎に原爆が投下された時、彼は10代であった。「福島の事故で、どちらもそう違いはないことがわかった。」
(終)

2011年8月7日日曜日

世界一のサービスを受けられるのは何処?

By NATE SILVER
201185

ガイドブックには、日本では決してチップを置かないようにと書いてある。しかし、私とパートナーは、昨年12月、日本へ旅した。90ポンド(40kg)位のベルボーイが私たちの満タンのスーツケースを私たちの部屋に運ぶことを申し出た時、我々は数百円のチップは必要だろうと思った。彼女は、丁寧に、私たちのお金を拒否した。その次の週には、霧雨が降り始めたので傘を私達に用意してくれたホテルスタッフ、あまりにも外れた場所でインターネットにも載っていないびっくりするような寿司屋の予約を入れてくれたホテルコンシェルジュ、今食べたばかりのおいしいすべての食べ物を記念して、英語でのメニューを私たちのお土産にしてくれたレストランオーナー、皆がチップを辞退した。チップがないのだ。それだけのことである。

この強硬な姿勢で、ある疑問が持ち上がった。あなたは、チップを期待しない国々でより良いサービスを得られるか、それとも日本固有のものか?その答えは少し複雑で、私がティッピングカーブと呼んでいるものに関わってくる。

先月、私は、約400人の経験豊富な国際的な旅行者に対して、彼らが24カ国において経験するサービスのレベルと、彼らがそれぞれの国で外食をした時にいくらチップを払ったかを調査した。サービスの面では、日本が圧倒的な勝利で、それは5点満点で平均4.4ポイントを獲得した。一方、ロシアはわずかな1.7ポイントで最下位であった。

何が一般に受け入れられるチップの慣行を構成するかを解明するために、私は、アンケートの回答と、3つの旅行エチケットウェブサイトの指導の組み合わせにより、「チップインデックス」を構築した。私は、これらの国を並べると、次の3つのグループのいずれかに分かれることがわかった。①かなり大きな額のチップが文化の一部となっているところ、②チップが一般的ではないところ、③①と②の間のどこかに該当するところである。

顧客サービスにおいて高いレベルと評価された国々は、スペクトルの両端に集まる傾向があった。日本とタイでは、チップは稀だが、サービスが優れていると見なされる。最もチップに親しい国である米国とカナダもまた、サービスに対する平均を上回る評価を受けた。

ほとんどのヨーロッパ諸国(ドイツは例外だが)平均以下の得点であった。フランス、スペイン、イタリアのような国々では、しばしば、勘定にサービス料を追加されている。 更にチップを払うのかどうかは、未解決の問題である。フランスへの旅行者の約3分の1は、レストランのボーイに小銭以上は払わないと言うものの、同じ旅行者の4分の1はまともなサービスのために少なくとも15%を払う、と言う。

ロシアのような奇妙なケースもある。彼らは外国人にはチップを期待するが地元の人間に対してはそうでもない、またエジプトでは、チップは一般的であるが、勘定に対する割合ではなく、フラットレートであることがよくある。

これらのすべてで、私たちはティッピングカーブがわかる。もし、ウェイターが寛大な心づけを期待する場合、そこには優れた仕事をするための強力な経済的動機がある。そして、彼らが全く何も期待していない場合には、適切なサービスは経済的要素から完全に切り離され、習慣の問題となる。しかし、国がそういった違いを分割しようとしたり、そのシステムに混乱させるルールを導入しようとすると、その国のウェイターは顧客に不満をもたらす可能性が高くなるようである。
(終)

2011年8月6日土曜日

チェルノブイリの長い半減期

The New York Times(英語原文はこちら
By FELICITY BARRINGER
2011316

チェルノブイリ原子力発電所での爆発と火災を振り返ってみる。私が1986年にソビエト連邦に住んでいたときに事態が明らかになったものであるが、チェルノブイリ原子力発電所が日本での福島第一原発とはどう違ったかを考えてみる。まず、原子炉の設計である。 建物が破壊された爆発は、チェルノブイリの場合、しくじった安全実験が原因であり、福島第一の場合は、巨大な地震とそれによる津波が原因であった。

開示されている情報の量に対する欲求不満が表明されているが、日本の政府関係者は、チェルノブイリ爆発後の数日間におけるソ連の指導者よりも、はるかに協力的であった。

しかし、認識の火花は同じようなところに辿り着く。 例えば、水曜日の新聞に私の同僚のKeith BradsherHiroko Tabuchiによって記述された、放射線の危険地帯で労働する日本の無私無欲な工場労働者である。私は、瞬時に、ウクライナのプリピャチ出身の消防士らのこと考えた。彼らは、ホースを持ち屋根の上に昇り、燃える火災や露出の燃料棒の上に開いた穴に向かって放水していた。問題を抱えた日本の原発周辺地域からの避難について読んだ時に、私は、チェルノブイリの発電所から約30キロの除外ゾーンから住民を除去させるスクールバスが、無限にかと思えるほど連なっていたテレビの画像を思い出す。

もちろん、英雄的な消防士や保護された住民たちの映像は、国営マスコミにより接触不可能な状況に置かれた。物事がいかに徹底的にコントロールされていたかを見せるためだけに、ウクライナ共産党の役人たちは、爆発から一週間も経たないうちにキエフでの毎年恒例のメーデーのパレードを開催することを主張した。私は、自慢できるわずかなウクライナの女の子たちを映し出そうとカメラがいすから飛び上がったり、毒ついたりしているのを覚えている。彼女たちは、目に見えない放射性粒子漂う間に、お下げ髪で笑顔でお礼をしながら通りを行進していた。

国家のプロパガンダの犠牲にされていたことに気づいていたのは、わたしだけではなかった。長く騙されていることに慣れていたソ連の民衆に対してでも、隠し通すことは長くは続かなかった。お祝いの席を注文した同じ党の関係者が、自分の子供を遠くへ転居させていた情報はすぐに広がった。そして数日の間、ウクライナの子どもたちで一杯の列車が、モスクワでキエフ駅に到着し始めた。次から次へと到着する完全に窓を締め切った列車の窓には、小さく神経質になっている表情の子供たちばかりだった。

私が、その駅に行ったとき、子供達に付随する女性は、ただ親戚に会うためのモスクワにやって来たと断言した。ここには何も見るべきものはありません。立ち去りなさい。このメッセージは、政府の執行者として働いていた凶悪犯が好む黒い革のジャケットのようなものを身に着けた敵対的な人間によってさらに説得力を与えられた。彼は権威の空気を漂わせ私に近づき、消え失せろと、私に言った。「誰が、あなたにキエフ駅で質問をする許可を与えた?」彼はうなった。

それから数年間、キエフ、ウクライナの首都、そしてチェルノブイリへの一連の取材旅行を行った私は、キエフ駅とより親しくなった。私が訪問するたびに、道路清掃トラックは、常に水を噴霧し、ほこりをおさえ、放射性粒子が空中に舞い上がらないようにしていた。メーデーのパレードで正常を装った見せかけは、パレード自体ほど長くは持続しなかった。

誇大の必要のない巧妙に作成された物語の一部が、そこにあった。しかし、ソ連当局はそれが価値があるとそれを宣伝することに抵抗できなかった。あの夜、消防士らが原子炉の屋根の上でしたことは、罰金のような、誰でもわかる自己犠牲の一例だった。

消防士のほとんどは、急性放射線症のため2週間以内に死亡した。シフト司令官、中尉レオニードTelyatnikovは、放射線の病気で衰弱させる状況においても生き残った。しかし、彼の指揮下にあった若い消防士らは被爆で死亡した。中尉私が災害の1年後に彼にインタビューした時、Telyatnikov中尉の髪は再成長していた。その時の彼の記述は、忘れられない。

「我々が火災を消そうとしている時、皆は放射線を見ることができるような印象を持っていた。最初、そこには、多くの物質が流れ、光、花火のようでもあった。投げ込まれたかのように、あちこちから湧き立つ光の点滅があった。

そして、人々がいた屋根の上にガスのようなものがあった。それは煙のようではなかった。そこには、煙もあった。しかし、それは霧のようなものだった。それは、独特の匂いだった。」

彼は、屋根の上で吸収された放射線の重い線量で、今後数年間に癌になるという可能性について話をしたがらなかった。「私は、年を取りたい。」と彼は言った。

彼は、2004年、がんで亡くなった。53歳であった。
(終)

2011年8月3日水曜日

日本じゃないの?旅行者たちは、安売りとリスクを考える

The New York Times 英語原文はこちら
By KEN BELSON
2011729

311日に日本の東北地方を襲った地震と津波は、原発の危機がそれに続き、おそらく経済の隅々まで影響を与えているが、直接的に影響を最も受けているのは観光産業である。外国人観光客の数は、これらのトリプル災害以来、50%に急落している。日本政府観光局の発表である。

しかし、4ヵ月で、旅行者は徐々に戻りつつある。ほとんどは、ビジネス旅行者、冒険を求める人やバーゲンハンターで、寿司の夕食で週の貯蓄を使い果たせる日本とはあまり縁のない訪問者たちである。

高価な遊び場としての日本を見ていたので、エリン・コンロイさんとジェニー・マクミーンズさん、ニューヨーク出身の友人同士は、日本への旅行をためらっていた。しかし、この春、彼らはairfarewatchdog.comで、東京までの往復チケットをわずか600ドルで見つけ、それは通常料金の半額で、そして1泊あたり2600円(1ドル=79円計算で約33ドル)でホステルの部屋を予約した。突然、日本が手頃な価格になり、対ドルでも過去最高に近い円高となった。

「我々にとって、いろんな意味で、東京は雲の上の旅行先のひとつだった。」コンロイさんは言う。彼女は、先日の土曜日、世界最大の卸売魚市場のある築地辺りをマクミーンズさんと歩いていた。

放射線の危険性はどうでしたか?コンロイさんとマクミーンズさんは、旅行勧告資料を熟読し、高レベルの放射能にさらされるようなことはないと確信していたと言った。「私の両親は、私たちよりももっと心配していた。」コンロイさんは言う。

旅行者たちは、日本を訪れる安全性をさまざまな方法を使って調べているようである。日本に住んでいる外国人や、日本へ頻繁に旅行する人によって書かれた記事が載っているブログを当てにしている人もいる。コンロイさんやマクミーンズさんのように、政府の勧告に頼っている人が多い。アメリカ国務省の発表は、「福島第一原発の状況は、まだ深刻で、動的な状態のままであるが、福島第一原発の50マイル(80km)の半径の外側では、健康と安全のリスクは低い。」英国では、外務省が、地震と津波に見舞わた東北地方と、福島の原子炉の37マイル(60km)以内には旅行しないよう勧告している。しかし、「これらの特定の領域外の日本の状況は、ほとんど正常に戻り、訪問してもトラブルはない。」とも事務局は話している。

リスクが本当に甚大であれば、政府は日本へ旅行しないように勧告するであろうが、今回は今のところそうではない、と話す旅行者たちもいる。「私は、日本人が今回の災害で弱音を吐かないので、私自身の宿題をしなければならないように感じた。」ジャック・Jaffeさんは言う。彼は、先月、ロサンゼルスから出張で東京を訪れた。日系のエレクトロニクス企業に勤務している。「しかし、私は英国と米国を確認した。両国のウェブサイトは、本質的に同じことを言っていた。原子炉の近くの区域以外は、大丈夫である。」

それでも、危機に対する日本政府の対応については疑わしいままで、土壌や水の放射線レベルを監視する能力も同様である。政府は、牛乳やいくつかの野菜の販売自粛の多くを解除したが、静岡県では、放射線の異常なレベルが栽培された緑茶に発見され、一部の汚染された牛肉は最近、その販売ルートであるレストランやショップで発見されている。しかし、概して、これらは孤立した事象として見られている。日本の食料と水の安全性のファクトシートでは、東京のアメリカ大使館が、「日本政府は、食品や水の供給に対する安全性を確保するための適切な措置を取っている。」と言っている。

疑問はあるが、訪問するかどうか決定は、世界の他の国々が日本をどう見ているかという委任状のようなものにかかっている。一部の自称訪問者にとって、割引航空運賃の保証があったとしても、今、日本を訪問させるには説得力がなかった。

「我々は、ここ2週間で、2回の余震があったばかりで、それとほとんど同時に、訪問しても安全かどうか尋ねるクライアントからEメールが入る。」ダニエル・サイモンは言う。彼は、フォーシーズンズホテル丸の内東京のゼネラルマネージャーで、同ホテルの予約は50パーセント減っている。サイモン氏は、東京には、世界で最も耐震性の高い建物があり、福島市の原子炉からは遠く離れていることを顧客に伝えていると言った。しかし、「メディアでは、日本に関する否定的なニュースがまだまだあるので、ハイエンドのレジャー旅行者は、2012年の中国の旧正月まで戻ってこないと思っている。」

心配は広がり、大阪の関西空港の到着便は、5月に47%減少した。関西空港は福島から360マイル(580km)の距離である。「私は、放射線は大丈夫か、と6回も聞かれた。」エド・コーンハウザーさんは言う。5月から、大阪から沖縄に旅行しているサンディエゴ出身のピアニストである。「ホステルの所有者の多くは、観光は落ち込んでいる、私に言う。外国人が来てくれない理由を知りたがっている。」

コーンハウザーさんは、福島からは遠いとわかっているから、日本に来るのは大丈夫だと感じた、と言う。友人たちの心配にもかかわらず、彼は、国務省のウェブサイトを読んで安心した。「あの地震の後だし、私はまた来るとは思わなかった。」と彼は言う。「友人たちは、大げさに反応した。かなり、大きな国だ。」

しかし、放射線に関しては、自信が揺らぐこともある。東京の、ホテルオークラ、帝国ホテルのようなハイエンドホテルを含めて、ホテルらは、最大50%の割引を打ち出し、旅行者を呼び寄せようとしている。こういった措置はツアーにも及び、香港や他のアジアの場所への旅行者を引き戻すのに役立っている。「今は混雑していないし、パッケージツアーの価格は20から50%ダウンしている。」ヒラタマサキさんは言う。日本観光公社のマーケティングプロモーション理事である。

ホテル経営者には、直接、彼らの宿泊施設がトラブルからはるかに離れたところにあると、お客様に安心してもらおうとする人もいる。ミナトキサブロウさんは、東京での貴美旅館を営業している。最近、旅館のウェブサイト上で、「福島での緊急事態は、外国のマスコミに誇張されています。」原子炉に近いエリアを除き「生活は平常通りです。」と載せた。

確かに、東京では然程の変化はなかった。ただ、少しエアコンの温度設定を上げることを含めた省エネ対策を除いては。仙台、地震の震源地に最も近い大都市でも、繁華街のレストラン、ホテル、商店は営業している。津波の影響がわかるのは、太平洋の数マイル以内の近隣エリアに行くときだけである。

それでも、多くの観光客は慎重すぎるくらいの方がまだいい、とエリー・コリンさんは言う。彼女は、ニューヨークでオベーショントラベルグループで働き、企業やレジャー旅行を扱う。あるクライアントは、62,000ドルの旅行をキャンセルした、彼女は言う。

「記事見出しは本当に見通しが暗く、毎日毎日、ますます神経質になっていった。」コリンさんは言った。彼女は、地震以来、日本への観光ツアーの手配をしていない。「私の感じでは、日本からの何か本当に良いPRがないと、観光旅行者が戻ってくるには来年までかかるのではないでしょうか。」
(終)

2011年8月2日火曜日

独自に放射能調査を行う日本人(福島県いわき市志田名地区 オオコシさん)

The New York Times 英語原文はこちら
2011731
By KEN BELSON 
発信地:いわき 日本

線量計を約625ドル(¥50,000)で購入したオオコシキヨコさんには、単純な目的があっただけだった。彼女の娘や孫がいないのがさみしくて、帰って来て欲しかったのである。

地元当局者らは、彼女の住む町は原発から離れているから安全だと言い続けるだけ。その町が福島第一原発から約20マイル(32km)であろうとも。しかし、娘にとっては疑わしいままである。それは政府からの人間は誰も自分の家の近くで放射線測定値を確認しなかったからである。

そして4月、オオコシ夫人は、近くの森の道路や水田をチェックするために、線量計を使い始めた。驚いた。下水溝の近くでのメーターは、乱暴に振れ、画面には時間あたり67マイクロシーベルトの表示、有害なレベルの可能性である。オオコシ夫人と近くに住むいとこは、当局者に立ち向かおうと盛り上がった。その当局者は彼らに対応せず、政府がやるべき仕事を行っていなかったという彼らの心配を知っていたのである。

彼女のシンプルかつ大胆な行為により、大越夫人は、小さいながらも増え続ける広範囲にわたる汚染に対する対応は政府の失策だとして踏み出した日本人のひとりとなった。その汚染は、指導者たちが認めるように、当初の発表よりはるかに深刻である。さらに遠く東京でも、母親らによって放射性物質のためにテストがを始められている。東京は、原発の南に150マイル(240km)である。放射線の専門家が最近、東京で線量計を利用するセミナーを開いたときには、250人以上の人が集まり、主催者側は一部の人たちに入場を断る事態となった。

何人かの官僚が主導権を握っていても、福島県のある町の役人が中央政府からの助けなしに校庭で土を洗浄し、原子力事故に対する彼の上司の対応が遅いと言って保健省での仕事を辞めた放射線専門家は、福島の市指導者が独自のモニタリングを行うのを手伝っている。

こんな行動は、米国でのコメントにはほとんど値しないだろうが、これが、人々が監視すべき指導者を通常は信頼する国で起きているのだから大変である。そのような信頼は、せいぜい、政府関係者が災害の甚大さに圧倒されるという考えで低下し、最悪の場合、いかに悪事が隠蔽されているという意味で破壊されている。

「彼らは、暴動もしないしとデモもそうは行わない。しかし、手をこまねいているわけでもない。」ジェラルドカーティス教授、日本市民権を取ったコロンビア大学で政治学教授であり長年の日本の専門家は述べている。「線量計の問題で明らかなのは、放射線の危険性というよりも、人々にさらに緊張感が高まっているということだ。」

信頼の腐食は、最初は、遠く東京の顔のない官僚や議員を目指したが、今では、知事、市長と市議会だけでなく、隣人同士を戦わせる潜在的な不安傾向にも及んでいる。その信頼はまた、復元するのは難しいようだ。憂慮する市民からの圧力の下、東京の官僚は、モニタリング範囲を拡大しているが、政府の基準が安全であるのかどうか、またはその関係者らがテストを十分徹底的に行っているのかどうかと疑問視している人々が多い。

上級政府の顧問が子供がそのようなレベルにさらさ​​れることを望んでいないとの涙ながらの記者会見と、親たちからの抗議の後、政府が最近子供の許容被ばくレベルを取り消さなければならなかったことも、役には立たなかった。放射性物質を含んだ牛肉が店舗に並んだことが最近発覚し、新たな警戒が高まった。

「我々は、人々が十分安心できるまで厳格な調査を行う必要がある。」ミホケイイチ氏は言う。彼は、二本松市市長で、二本松市は福島第一原発の西側に位置し、60,000人の人口を有する。二本松市長は、増えつつある直接問題に直接取り組む地元の関係者のひとりで、市の放射線マップを作成するような対策に何百万ドルを費やしている。「これが信頼を回復する唯一の方法です。」

オオコシ夫人は、農家の生まれで、85歳の母親と暮らしている。そして娘の一人は、多くの日本人を惹き付けている都市の誘惑に抵抗し、代わりに、母親と祖母と同じ屋根の下での生活を選択した。

わからない部分では、オオコシ夫人は、彼女がトラブルを起こしたことを隣人に謝った。

それでも、彼女は、他に選択肢がなかったと感じていた。3月に始まった危機から数週間たっても、いわき市には10にも満たないモニタリングポストしかなく、それらのほとんどはより人口の集中する部分に置かれ、オオコシ夫人の住む志田名地区のようなその辺境の村は対象ではなかった。

そのうえ、彼女の蔓草がはびこる農家が、ますますひと気がなくなったのは、彼女の夫が数ヶ月前に亡くなったのと、多くの人と同様娘の家族が逃げたためである。

「私たちの生活は、4人の少年が家の裏手の山を走り回っていた頃は、活気あふれるものだった。」彼女は言う。

オオコシ夫人のテストは、高レベルの放射能を表示し続け、また彼女のいとこであるサカイチュウヘイさんが、同じ地域の農民であるが、市長に彼女のデータを提出するため、他の村人たちと一緒に出かけた。市長は対応しなかった、とサカイさんは語った。

それ以来、彼女は草の根的なモニタリングであると評価を得ている。「私は、最近の会合で私の名前を持ち出すたびに、市の職員は言う、『ああ、あなたが放射線を測定された方ですね。』」と彼女は言う。

測定は国と都道府県が行う必要があると言う市の指導者たちは、調査結果によっては起こりうる汚名の一切を避けたかったために行動に移さないと、サカイさんは考えている。

戦いの原動力は、貴重な援軍の到着とともに動き始めた。その一人はサトウカズヨシ氏、長い間原子力産業に反対してきた市議会議員で、多くの人々が第一原発で働く都市においては不人気な立場であった。

アマチュアが調査した線量計の測定値は粗雑と考えられるが、彼らは放出された放射線の1種類しかを測定しておらず、人がどのくらい放射線にさらされた可能性がを調べていないため、サトウ氏は、米国エネルギー省と日本政府による空中や土壌の測定値のマップを見た後に、オオコシ夫人の危惧が生まれたと考えた。また、かなり基本的だが、それは、137セシウム134とセシウム放射性同位体の高レベルのインジケータは、まさに彼女の村、志田名地区の上に鮮やかな黄色の区域を示していた。

今度は、市議会議員が、キムラシンゾウ氏、保健省を辞めた放射線の専門家を採用した。キムラ氏は、その後、オオコシ夫人の測定値が正しかったかどうかを確認するために広範なテストを行っている。彼は、測定は正しい、と言い、そして悪いニュースである。

放射性物質は、常に決まったパターンに合致せず、風向や地形の違いひとつで、1つのエリアをひどく汚染するが、近くの他の地域はそれほどでもなかったりする。いわき市の一部の地域は放射性物質の比較的低いレベルを示したが、志田名地区のある農場からの土壌サンプルは、ウクライナのチェルノブイリ原発事故の現場周辺の避難帯などに見られるように高い放射性物レベルを示している、キムラ氏は言う。

いわき市は、最終的に空気中の放射性物質の監視を開始することを決定したが、その問題がどの程度深刻なのかはまだ特定できていない。オオコシ夫人は、測定値が正しいと認められたことで慰めにはなってはいないが、彼女が変化を起こしたことは感じている。彼女は、騒ぎを起こしたことで謝罪をした友人が、その必要はなかったと彼女にはっきり伝えたことを、知っている。

「彼女は『いいえ、いいえ』」と言い、 オオコシ夫人は思い出した。「もし、あなたが測定していなかったら、私はなんの情報も得られなかったんだから。」
(終)
(カミイズミヤスコ、記事寄稿)

2011年7月31日日曜日

チェルノブイリの消えない傷跡

The New York Times英語原文はこちら
July 11, 2011
By JOE NOCERA

奇妙なことに、史上最悪の原子力事故の25周年は、動物についてのジャーナリズムによって現れた。2つの雑誌、ワイヤードとハーパーは、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所周辺のいわゆる退去ゾーンにおける、動物の生命の再起についての長い記事を出版している。

すべてが順調なようだが、最近の日本の原子力事故により、あなたはむしろ、チェルノブイリの影響を受けた人々に何が起こっているか知っているだろうか?

私は、こんな人を知っている。彼女の名前は、マリアGawronska30歳、スマートで魅力的な、マリアは2004年にニューヨークに移住したポーランド人である。私は、おそらく4年前、私の婚約者を通して彼女に会った。彼女は、いつも、タートルネックを着ていた。たとえそれが、真夏の暑い日であったとしても。

マリアの故郷、ポーランド北部のオルシュティンは、チェルノブイリから400マイル(640km)以上離れている。チェルノブイリ原子炉がメルトダウンを起こした19864月、彼女は5歳だった。膨大な量の放射能が吐き出され、ウクライナ、ベラルーシ、そしてポーランド北部にもまたがり拡散した。

「最初は」と、マリアは言う。「爆発が起きたが、危険ではない、と言われていた。」しかし、数日たって、ソ連はしぶしぶ事故を認めた。マリアは、皆がヨウ素の錠剤を与えられ、そして室内に留まるように指示されたのを思い出す。彼女は、次の2週間、家の中に滞在した。

彼女は、ポーランド人が事故の健康影響について知るまでにに数年かかると、耳の早い人たちが話しているのも覚えている。とりわけ、放射線は甲状腺に大きな障害を与えるので、ヨウ素の錠剤を摂取させた。甲状腺が吸収する放射性ヨウ素の量を最小限に抑えるためであった。

案の定、25年に渡り、オルシュティンでは甲状腺の問題が爆発した。病院全体が甲状腺の病気にかかりっきりになっていたと、マリアは言った。全く誇張ではない。アルトゥール・ザレウスキ博士、オルシュティンの甲状腺外科医は、1990年代初頭以来、彼の業務で甲状腺手術が大幅に増加していたことを確認した。一部の人々は甲状腺癌にかかっているが、多くは、甲状腺肥大、または正常に機能しなくなった甲状腺の病気にかかっている。

しかし、アルトゥール・ザレウスキ博士は、甲状腺疾患がチェルノブイリにつながる科学的証拠がないことも、私に助言した。ソ連の非協力も一因であり、そしてランセットが「相当な難題」として記述することも一因で、ポーランドの甲状腺の問題にチェルノブイリ災害がかかわっている可能性を示すかもしれないため、疫学的研究が始められたことはなかった。

行われてきた研究は、がんに焦点を当てていた。ランセットによれば、ベラルーシとウクライナでの小児白血病および乳癌の増加は、チェルノブイリ事故による可能性がある。しかし、「欠陥研究の着想」であり、これらの研究は決定的ではない。

しかし、私が、マリアの母、バーバラGawronska コザックさんにeメールを送った時には、彼女は頑固に「私は、チェルノブイリ事故が甲状腺の問題の増加させたと、確信している。」と言った。バーバラさん自身も、科学者(ただし、疫学者)であり、「ポーランドの平均的市民」たちもそう信じていたと、私に言った。彼女自身、事故の10年後、甲状腺手術が必要となった。マリアの母は、2回、甲状腺手術を受けた。彼女の親友は、1度、甲状腺手術を受けた。高校時代の古い友人は、最近、甲状腺腫を摘出した。マリアは、家族のうち、彼女の父親だけが、甲状腺に傷害がなかったと、私に言った。

そして、約5年前、マリアの番だった。彼女の甲状腺が徐々に拡大するにつれ、彼女の気管を圧迫するようになり、特定の場所で息をすることが難しくなった。もちろん、その拡大が見苦しいのが、彼女がいつもタートルネックを着ていた理由だった。ニューヨークの専門医は、そのような症状は見たことがなく、治療する手術は高リスクで彼女の声帯を損傷する恐れがあると、彼女に告げた。そのため、マリアはポーランドに戻り、彼女の故郷で手術を受けることにした。今年の初め、彼女はその手術を受けた。

チェルノブイリ事故のように、我々が、福島第一原子力発電所事故の影響で、その近くに住んでいた人々の健康にどのように影響するかを知るまでには、長い年月がかかることになる。はるかに少ない放射線放出ではあるが、それは水の中に漏れ、形跡は食糧供給において発見されている。そのため、我々は、原子力発電にどう対処するかを考える。原子力発電は、クリーンエネルギーに対するじらすような期待を抱かせながらも、常に、一旦間違いが起こると大災害となる危険性をはらんでいる。単純な問題ではない。 福島第一のような事故があるたびに、我々は思い知らされる。チェルノブイリもそうである。

マリアは、と言えば、少なくともこの話はハッピーエンドである。ザレウスキ博士、彼が彼女の手術を行ったが、その甲状腺の大きさを見たときには尻込みはしなかった。手術は、成功だった。彼女の声帯は、正常のままである。彼女は以前よりも元気になっている。

マリアは、彼女がオルシュティンにいる間、古い友人を探したと、私に言った。彼女がオルシュティンに戻ってきた理由を聞いたとたんに、「みんなが笑って、自分の傷跡を指差し合った。」と彼女は言った。

彼女がニューヨークに戻ってから間もなく、私が彼女に会ったとき、彼女の小さな傷に気づかずにはいられなかった。彼女は、タートルネックを着ていなかったのである。(終)

(モニカ・アロンソン:翻訳とレポート作成の支援)

2011年7月28日木曜日

マクドナルド ハッピーミールのスリム化を発表

The New York Times 
2011727
By STEPHANIE STROM

健康への支持と保護者からの圧力には抗しがたいと、マクドナルドは、ハッピーミールをダイエットする。

同社は、火曜日、子供に人気のメニューについて、全体のカロリー数を20%減らそうと努力した結果、フライドポテトの量を半分以下にし、果物を加えることを発表した。

しかし、マクドナルドの譲歩はそこまでだった。おもちゃは、依然としてハッピーミールそれぞれに付いてくる。この取るに足らないおもちゃは、多くの場合の「トイストーリー」のような映画に抱き合わせで、子どもたちがふんだんにカロリーを含んだ食事を欲しくなる強力な影響を与えるいう批判にもかかわらずである。

ハッピーミールの売上は、すべてのマクドナルドの売上高の10%未満である一方で、1979年に発表されたそのシグニチャーボックスとその内容は、近年では人気の的になっている。議員や消費者団体は、おもちゃとファーストフードの子供らの繋がりを断とうと結集している。オバマ夫人と国家公衆衛生当局が、国の若者の間での肥満率が推定17%に達していることを指摘しながら、ますますの努力を重ねている。

例えば、サンフランシスコでは、特定の栄養所要量が満たされていない限り、子供の食事におもちゃを含めることを禁止している。ニューヨーク市議会議員は、同様の法律を提案している。

他の外食チェーンにおいては、子供向けのメニュー内容を改善し、市場アピールを排除する呼び出しに応じるマクドナルドよりもさらに進んでいる。6月、ジャックインザボックスは、子供の食事に含めていたおもちゃの終了を発表し、今月、バーガーキング、IHOPなど多くの他のレストランチェーンが、全国レストラン協会が主導する努力を支持した。同協会は、若者のために健康を考えたチョイスを提供、促進している。

「マクドナルドは、パン全体を与えず、半分または3分の2のパンしか与えていない。」マイケルF.ジェイコブソン氏は言う。彼は、公益科学センターのエグゼクティブディレクターで、ハッピーミールにおもちゃを含めていることに対し、マクドナルドを提訴しているカリフォルニアのある女性の代表をしている。「これは、正しい方向へ向かう重要なステップである。」

マクドナルドは、保護者や消費者団体の圧力に対して、ハッピーミールの構成を変更していたことを明確にした。また、ソーダやデザートの例外を除き、食品のすべてからナトリウムの含有量を15​​%まで削減することを約束した。それは、塩分を制限するための期限を2015年に設定し、2020年までの残りの年数を使って、砂糖、飽和脂肪、カロリーを削減し、商品ボリュームを調整すると述べた。

新しいハッピーミールは9月に導入予定で、20124月までに、同社の14,000店舗で展開される。同社はすべて、(ハッピーミールに)リンゴのスライスが含める予定だが、現在、他の提供チョイスとして含まれている810のスライスよりも少ない、35のスライスである。(リンゴのディップは、同社がキャラメルディップソース段階的に廃止した後に変更される予定である。火曜日の発表による。)

「全メニューにおいてボリュームを小さくし、10%の子供に対してボリュームを大きくするという調整である。何もないよりはましであり、おそらく外に食べに出かけるときに新鮮な果物や野菜を食べるように子供を慣れさせることができるであろう。」とジェイコブソン氏は言う。

保護者は、フライドポテトの代わりに、さらなる果物や、まだ時間がかかりそうだが、野菜を選べるようになるであろう。マクドナルドはまた、無脂肪チョコレートミルクのチョイスを提供する予定で、低脂肪乳や伝統的なソーダのチョイスに加えられる。価格の変更は、予定されていない。

現在のチキンナゲットハッピーミールは520カロリー、脂肪26グラム、再構成されたバージョンでは、1%のミルク、410カロリー、脂肪19グラムになると、同社は発表した。

同社は、ハッピーボックスから完全にフライドポテトを排除することを試みたが、それは顧客からの苦情が多く発生した、と述べた。ダンヤ・プラウド氏、マクドナルド社の広報担当者は、マクドナルドのテストではまた、保護者たちが、利用可能なドリンクの中でソーダを望んでいたことが分かったという。「我々が、本当にこれらのテストを通じて感じたことは、最終的には子供たちを健康にするのは親の判断である。」彼女は言う。

マクドナルドは、長い間、保護者に対し、フライドポテトの代わりに果物のチョイスを提供してきた。しかし、食料政策と肥満のためのエール大学のラッドセンターの調査では、わずか11%しかそのチョイスを利用していなかったことがわかった。

ファストフードの批評家の一部や公衆衛生当局は、この動き(オバマ夫人は、「前進の一歩』と呼んだ)を賞賛しながらも、まだマクドナルドの対応は不十分だと不満を言う人が多い。マリオン・ネスレ、ニューヨーク大学の栄養学教授と食品業界のある辛口批評家は、マクドナルドがハッピーミールのソーダについて何も制限もしていないと、この変更を「見せかけ」と称した。

「彼らは、これで巨大な宣伝効果を得ようとしている。少ない量のフライドポテトで。」ネスレ博士は言う。「私は、感心しません。」

実際、リンゴがソーダ付のハッピーミールに追加されたとき、新しいパッケージにおける糖の量は増えている。

食品の栄養情報についてより良く知ってもらうようにする努力の一環として、同社は、初めての一般向けモバイルアプリケーションを開発した。マクドナルドの経営陣はまた、彼らの懸念について、消費者から直接聞くために、国を巡る予定である。

「我々は、私たちができることはやっている。」プラウド氏は言う。「我々は、時代とともに進化している。時代が我々を必要とし、顧客たちは、より多くの選択肢を提供することを、私たちに求めている。」

プラウド氏は、この変更を持ってしても、ハッピーミールはサンフランシスコでの要件を満たしておらず、例としては、果物と野菜の提供を両方要求している。それは、ある会社が子供の食事と一緒におもちゃを含めることができる前からのことである。

公衆衛生の専門家は、条例が12月に施行される前に、マクドナルドがその条例に対し法的な挑戦をしかけると予想しているが、プラウド氏は、マクドナルドは、今回のチョイスを評価していると述べた。

(ウィリアムニューマン氏:記事寄稿)

同日付けのニューヨークタイムズのマクドナルドの全面広告
『チェンジング・トゥゲザー 皆さんとともに始まった』

『昨日、我々は、メニューの変更について、いくつかの発表をしました。しかし、実際には、我々は日々、変更を行っています。なぜなら、お客様のニーズが絶えず変化するからです。

ナトリウムが問題になれば、それを削減するように努力しました。人々が、飽和脂肪に関心を持つようになるにつれて、我々は、味を変えないで食品内の飽和脂肪を減らす方法を模索しました。そして、数年前、フライドポテトでの飽和脂肪を0グラムにまで削減しました。最近、この国では、子供がどのように暮らし、何を食べているかという重要な会話を取り交わすようになりました。我々も、同じ討議を行っています。

そして、今、我々は、重要な変更を発表します。我々は、ハッピーミールに果物を追加します。そして、新しい、子供用サイズのフライドポテトとともに、一番人気の高いハッピーミールにおいて、平均20%のカロリー総量を削減しました。来年を目処に、チキンナゲットを2003年比で23%のナトリウム削減します。さらに、2015年までに、国中のメニューにおいて15%のナトリウム削減をお約束します。

57年の間、我々は、お客様からの信頼を頂いております。我々は、それにお答えできるよう、ご希望の品をご希望の時間にお届けしております。つまり、お客様に望まれることが、お客様にご満足頂けることでございます。』

(終)

2011年7月26日火曜日

前例のない、北朝鮮で規定コース外の写真取材

By JEAN H. LEE  
2011726
発信地:ピョンヤン 北朝鮮


同級生の手を握り、一緒に小さな男の子がスキップする。彼の頬は紅潮し、彼のくまのプーさんのトレーナーには、偉大な指導者の笑顔のバッジが留められている。チュチェ塔の隣にあるドイツ風パブでは、緑色の軍服を着た男たちがビールを片手に冗談を言い合う。女子学生たちは、先鋒隊の赤いスカーフを身に着けて、私も子供の頃に習った古典的な韓国の曲を歌いながら、調和して体を動かす。

私が目にする至るところで、共産主義の北朝鮮は、外国の世界でもあり、私のような韓国系アメリカ人の目には馴染みのある世界でもある。男達はマオスーツを着用し、子供たちはミッキーマウスのリュックサックを背負う場所であり、そこでは、彼らは互いを「同志」と呼び、スパイシーなキムチが好物である。

2008年にAP通信のソウル支局長になって以来、私の北朝鮮への目を見張るような訪問も5度目である。アジア地区のチーフカメラマン、David Guttenfelderは、過去12年間に何度もこの国を旅している。
今年、Davidと私は、前例のないアクセスを与えられている。我々は、この国の田舎に旅した。北朝鮮のジャーナリストを伴ったが、政府のボディガード付きではない。私たちは、携帯電話を持ち、インターネットアクセスを与えられ、そしてドライバー付きのバンで、南は開城、北は妙香山、南はNampoまで訪れた。

この私たちの旅行中、世界で最も隠されている国の一つで、日常生活を垣間見ることができ、変化の最前線にある国であることがわかった。

我々が取材ツアー中に目にするもののほとんどは、慢性的な経済困難に苦しんでいる国ではなく、明るい側面を見せるように意図されている。平壌の近代都市において、貧困を目の当たりにすることはない。我々は、キラリと光る廊下や、大きく、シャンデリアで飾られたロビーを、キラキラ光るドレスやきちんとした軍服を着たガイドを介して案内される。ガイドたちは台本があるかのように話をする。生け垣は刈り込まれ、ベゴニアが満開である。

しかし、これらの段階的な訪問を通し、率直な機会を得て、西側諸国に対して得体の知れない社会にも人間の顔が見え隠れする。それは、典型的に描かれているよりももっと複雑で質感があるものである。

(終)

2011年7月21日木曜日

困難な道をゆっくり前進 −国際女子サッカー界のこれから−

The New York Times 英語原文はこちら
By JERÉ LONGMAN
2011718
発信地:フランクフルト

先日の女子ワールドカップでは、今まで、女子サッカーをどれだけ魅力的に引き立ててきたか、そして今後、女子サッカーがまだどれだけ続けてゆかなければならないかを、まじめに思い知らされた。

日本の勝利で、被害にあった日本国民と、日本チームのリズミカルなパスと巧みな動きを受け入れるようになったサッカー界は、励まされた。フランスでも、サッカーというスポーツを、エレガントでスタイリッシュなものに押し上げた。

「日本チームのプレーに対して、言われていることに、」とピア・サンデイジ氏、アメリカチーム監督は語った。「日本チームは、ボールと戯れている。それは、女子サッカーの将来にとって良いことだ。」

アメリカチームは、日曜日の決勝において、優勝の機会を逃したことや、ペナルティーキック時に珍しく感じた不安を感じたことを、きっと嘆くであろう。しかし、日本のペナルティーキックの勝利で、女子サッカーもグローバル化が進み、そして競争力を持ち、もはや、米国、ドイツ、スカンジナビア諸国の、世界の一部の国だけに支配されている時代ではないことが証明された。

コロンビアは、このワールドカップで初めて出場した。そう、ギニアもそうだった。フランスは、初めての準決勝進出、日本も、初めてのチャンピオンであった。大差だった試合でも、4-0で、2007年にドイツがアルゼンチンに大勝した11-0よりもはるかに僅差であった。

チケットの80%が売れた。観衆は、理解があり、行儀がよかった。忠実なゴールキーパーが多く、ゴールシーンは感動を呼んだ。引きつけられる競り合いとしては、ドイツに対する日本の見事な準々決勝での勝利や、ブラジルに対するアメリカの興奮する巻き返しには、誰もかなわないだろう。

12年前、女子ワールドカップ決勝で、アメリカが中国に対し、ペナルティーキックで感動的な勝利をおさめた時は、スポーツとしての大きな革命だと考えられた。それは、タイトルナインとして知られる性平等の法律によって約束されるように、参加すべき絶好の機会が与えられることによって、実現性のブラジャーむき出し姿スポーツのお祝いであり、女性が到達可能なレベルの確認であった。

先駆者であることの負担や責任から解放され、現在のアメリカの選手たちは、純粋にプレーすることができ、今までの彼らが正しく評価されるようになった。速度、勇気、深さ、そして勝利が断固とした粘り強さで奮い起こされるという不動の信念にへこたれない、素晴らしい選手たちである。

1999年、女子サッカーやスポーツにまつわるすべての少女と女性にとって重要であることに明らかな自覚があった。」ブラン・チャステインは、言う。その年のワールドカップ決勝で、勝利のペナルティキックを決め、そのトーナメントでジャージを振るのお祝いを率いた人である。「今考えると、このチームがもっぱら主流と見られている。まだこういった感じである。『彼らが美しいだとか、すばらしい』もう、それはいい。しかし、以前に比べたら、実際のサッカー自体についてのより詳細なコメントを耳にするようになった。これは、大きな進化である」

また、ジュリー・ファウディは言う。かつてのアメリカのキャプテンである。「今、それは『ああ、女性がこんな機会を持ち得ていることは素晴らしい。このゲームがこんなに広まっているのを見てください。』」

今回は、まだ6度目の女子ワールドカップの開催であった。女子の大会は、1991年に始まった。最初の男子のワールドカップ開催からの60年後である。ほんの7年前、ゼップ・ブラッター、FIFAの会長は、女性がタイトなショートパンツを身に着けることによってゲームの魅力を向上させるかもしれない、と言った。やるべきことは、まだたくさんある。

Eucharia Uche、ナイジェリアのコーチは、同性愛嫌悪発言で彼女のチームを台無しした。彼女は、同性愛を、「汚い問題」とか「精神的、道徳的に非常に間違っている」と呼び、レズビアンのように振る舞うグループを取り除こうとした。これは差別に関するFIFAのルールに明らかに違反していたが、FIFA自身の取り締まりを非難されるように、FIFAからは、何の言葉もなかった。

ドイツとフランスの選手たちは、ワールドカップのために注意を引くために、必死の試みでヌードを持ち出した。BBCは、フランスと対戦するイギリスの準々決勝を放送するように圧力を受けなければならなかった。試合は、英国で180万の視聴者を集めたが、現代的なサッカーが発明されたこの国ですら、女性の試合は大きく無視されたままであった。

「正直に言うと、私の仕事の同僚や友人は、私が女子ワールドカップを担当しなければならないことに残念がっていた。」イアンダーク、ESPNの英国の解説者は言う。「まるで、処罰のようだった。私、何か悪いことでもした?」

少なくともイギリスは、ワールドカップに出場した。1999年に決勝に進出した中国は、今年、姿を見せなかった。ファウディは、中国出身の昔のチームメイトと話し、中国では、親たちが子供たちの教育レベルが下がるのを恐れて、スポーツ教室に自分の娘を行かせることに消極的になっていると言われたと、話している。

中国は、経済的に繁栄するにつれて、ファウディは、「親たちは、自分の子どもを落ちこぼれにしたくない」と言う。

ブラジルは、ウォームアップ試合を少しこなしたが、特に鋭敏な感じはしなかった。ブラジルのサッカー連盟は、女性のゲームを十分に擁護したことはない。これは、男子サッカーが力を持つ国において、女性が直面する長い困難な道のりを反映している、とアンドレイ・マーコビッツは言った。彼は、ミシガン州の教授で、「オフサイド:サッカーとアメリカの例外論」の共著者である。

ドイツを除き、ラテンアメリカやヨーロッパでは、支配的な男性のサッカーの文化における女性は、非常に困難である。男性は、女性を自分の勢力範囲として見ておらず、受け入れず、常に見下し、達成者とは考えない。」マーコビッツさんは言う。

「彼らは、女性を、純然たる侵入者だと見ている。」彼は言う。

このワールドカップで、アメリカは多様性の面で、一歩後退した。アメリカの選手は、すべて白人だった。一方、イングランド、フランスとドイツは多文化の布陣を敷き、メキシコは、メキシコ系アメリカ人の選手を取り上げた。おそらくこれは、多くのコーチが言う、アメリカ女子のゲームを左右する青少年育成の停滞を象徴している。

「指示はまったく無かった。」トニー・ディシコ氏、1999年ワールドカップのタイトルを取った時のアメリカのコーチは言った。「そのせいで、我々は、人気を失った。」

上級レベルでは、米国は、今、運動能力に技術的な精巧さを加え、世界最高レベルに君臨しなければならないという難攻不落の真実に直面している。

「その通りだ。」アメリカチームコーチ、サンデイジ氏は言った。

「日本とフランスを見てください。」

(終)

2011年7月18日月曜日

国家を励ます蘇ったサッカーチーム(ワールドカップ女子サッカー 日本優勝)

By JERÉ LONGMAN
2011717
発信地:フランクフルト

日曜日、日本は、初めて、ワールドカップ女子で優勝した。それは、希望、再起、忍耐、冷静と少なくない幸運で築き上げられた大勝利である。被災国を盛り上げながら、何とか勝とうとしたその試合は、米国が支配しながらも抑えることはできなかった。

試合結果は、2-2で終了した規定の30分の延長戦の後、日本が、ペナルティキック戦を3-1で制した。洗練されたパッシング攻撃は、徹底したアメリカのディフェンスによって鈍らされながらも、日本は、穏やかに、立て直しながら、アメリカの2回のリードを跳ね返し、そのがんばりと決意の中で、断固として戦った。

そのがんばりは、、両方の日本のゴールにつながったボールの思いがけないのバウンドと、少し広がりすぎてクロスバーとゴールポストに当たったアメリカのボレーシュートで、最終的に報われた。そして、ゲームは、ペナルティキック戦という容赦のない勝敗決定に至った際、日本チームはぐらつかないままであった一方、アメリカチームは、珍しく落ち着きを失っていたのが明らかでだった。

もし、日本チームがラッキーであったと言うならば、それは、日本チーム自身でもたらした幸運であった。この日曜日まで、それは米国に対しての戦績は、0223分であったが、この一晩で、この以前の一方的なライバル関係は、サッカーの最も重要な試合において、違う方向に転がった。

「私のサッカーの神が、初めて、米国に対し勝たせてくれた。」コーチのササキノリオさんは言う。「間違いなく、何かの助けが加わったと思う。」

この日本の勝利は、地震と津波が国の東北地方沿岸を襲った4ヶ月後にもたらされた。15,000以上の人々が死亡し、数千人が避難を余儀なくされた。そのシーズンの出場辞退を余儀なくされたプロ日本人女性のチームも例外ではなかった。大会期間中、代表チームは、チームの勝利が日本の人たちを励まし、誇りをもたらしてほしい、と繰り返し話していた。

「彼らは、地震災害の被災者に勇気を伝えたい、と言い続けた。」NHK、日本の公共放送ネットワークは、月曜の早朝、優勝を伝えた。

東京では、ファン達が抱き合い、声援と通りにあふれ、始発列車に向かっていた。ニュース報道局らも、ワールドカップの結果を伝えた。テレビ朝日は、「歴史的な勝利」だと伝えた。

「日本列島中が祝福している。」と報じた。

米国は、PK戦で負けずに、4-1で勝てたかもしれない試合を落としチャンスを逸したことを、しばらく悔やむことになるであろう。しかし、日本は、屈しなかった。アメリカ人がリードを奪う度に、日本は、逃さず攻撃し、追いついた。

「アメリカチームは、ゴールを決めると、足が止まった。」ササキさんは言う。「我々は、それをわかっていた。」

アレックス・モーガンが、69分、ロケットシュートで先制し、1-0とした後、日本は、アメリカのディフェンスのぎこちないミスを利用した。81分、レイチェル・ビューラーは、必死のクリアランスの試みたが、彼女のパスは、アリク・リーガーから、突進してきた日本代表ミッドフィルダーのミヤマアヤに渡った。

彼女の側足のシュートは、無防備なホープソロを破りアメリカのゴールへ。1-1とし、30分の延長戦に持ち込んだ。

「走りに走った。」サワホマレ、日本チームキャプテンは言う。「疲れ果てていたが、走り続けた。」

104分、フォワードのアビー・ウォンバックは、どのサッカー女性選手よりも見事にすべきこと果たした。モーガンからのクロスボールをヘッディングで合わせ、ネットに沈めた。米国は、2-1でリードしたものの、予断の許さないリードだった。再び、日本が反応した。

117分、サワ、32歳、5度目のワールドカップ参加、コーナーキックを方向を変えウォンバックをかわしゴール。2-2の同点に持ち込んだ。沢のゴールは、ワールドカップ大会中で5本目のゴールだが、これほど切迫したものはなかった。そして、勝負は、PK戦に及んだ。

12年前、アメリカチームは、中国に対してPK戦を制し、ワールドカップで優勝している。この大会の準々決勝でも、アメリカは、もつれるPK戦を破り、ブラジルに競り勝った。しかし、この時のアメリカチームは、あまり前向きな感じではなかった。ゲーム終盤のラリーでも、ゲームを立て直すのではなく、リードをあきらめているようだった。

「日本チーム以上に、アメリカチームにもプレッシャーがかかっていたようだ。」とササキは言う。「我々は、言い合った。『こうして、我々は、ついに決勝まで来て、PK戦までやって来た。我々には、何かが憑いている。』それで、幾分プレッシャーが解れた。おそらく、この時の状況に対処するのは、日本チームの方がやさしかったのだろう。我々は、追い付いた立場だった。心理学的観点からみても、PK戦は日本チームが有利だった。」

シャノン・ボックス、最初のアメリカのペナルティーキックは、キーパーのカイホリアユミの右足で阻止された。これが、アメリカチームの気力を奪い、やる気をくじいたように見えた。カルリ・ロイドは、彼女のキックを膨らましてしまった。カイホリは、トービン・ヒースのペナルティーキックも止めた。唯一、ウォンバックだけは、落ち着いて、アメリカチームのため、ペナルティーキックを決めた。

「私は、PK戦では助けられた。アメリカチームがミスをした。」カイホリは言う。彼女は付け加える。「PK戦では、ただ、自分自身を信じるだけ。私には、とても自信があった。単純に、私に向かって来るシュートのすべてをクリアしたかっただけ。」

一度は手の届かないところに見えた大勝利を、勝ち取るこのチャンスに、日本代表ミッドフィルダー、クマガイサキは、腰に手を置き、彼女の腕を伸ばした。そして、ゴール左上隅にペナルティキックを放った。

「本当に、言葉がない。」ウォンバックは言う。「ほぼ互角だった。」

日本人選手は、競うように共に勝利を分かち合い、紙吹雪でシャワーを浴び、そして、国際的な災害救援に関して、「友達である世界中の皆さんへ、あなたがたの支援に心から感謝しています。」というバナーを広げた。

今回のワールドカップでの勝利ごとに、日本チームの自信は、チームの愛称で呼ばれているピンク色の花のように、開花していくように見えた。以前はヨーロッパのチームを破ったことがなかった日本が、今回はドイツやスウェーデンを片付けた。そして、このトーナメントで優勝。米国に対して、ペナルティーキックというどちらに転ぶかわからない勝負を制した。

「もし、ワールドカップで、他の国が優勝するとして、それが日本であるならば、私は、本当にうれしく誇りに思う。」ロイドは言う。「心の奥底では、我々が勝つ運命なんだと、本当に思っていた。でも、おそらく日本が勝つ運命だった。」

今回は、日本チームにとって、アメリカチームに対するすばらしい転機であった。日本チームは、今年、アメリカに3度破れている。5月に米国で披露された2回の敗北のときは、日本チームは、地震と津波からか茫然としていたようだった。ジュリーファウディは話した。彼女は、元アメリカチームのキャプテンで日本チームのサワとも友人である。

ファウディは、その米国での2度目の敗北の後、サワと話をした。サワは「我々は、大丈夫。」と答えた、と言う。

「でも、大変な状況であることは、わかっていた。」ファウディは最後の日曜日、決勝戦の前に言った。「日本チームが、どれだけ悲しみや苦しみで圧迫されていたかが、わかった。悲しい。日本チームは、衝撃と苦しみを乗り越えて、楽観さを持ち始めている。今回は、全く違うチームのように見える。」

チームは今、世界の頂点に立っている。
(終)

2011年7月17日日曜日

震災から甲子園大会出場まで 苦悩を抱える東北高校野球部

By KEN BELSON
2011715
発信地;仙台、日本

日本中の高校野球選手は、全国優勝を目指し甲子園球場でプレーすることを夢みている。その夢は、一握りの選手しか叶わないけれども。東北高校野球部も例外ではない。東北高校は、日本で最高の投手と言われるダルビッシュ、シアトルマリナーズのストッパーであった佐々木主浩選手を輩出するスポーツ大国である。彼らは、甲子園大会への出場は40回果たしてきたが、まだ優勝したことはない。

41回目の東北高校の挑戦は、今週、志津川高校を8-0で破り、幸先の良いスタートを切った。それは、8月の甲子園大会に宮城県代表チームとしての出場校を決めるために地域大会の開幕戦であった。東北高校は、土曜日に次の試合となるが、その出場権を勝ち取るために、さらに4試合で勝たなければならない。

かかるプレッシャーは、相当だ。甲子園でのトーナメント戦は、ワールドカップのようなものである。この国では、数週間の間、皆がこのトーナメントに釘付けになる。毎年、春には地区から選抜形式で、夏には、地域大会の予選方式で出場校が決まる。しかし、4カ月前に東北地方を襲った地震と津波の影響で、今年の挑戦は、違った意味を持つことになった。

15マイル(24km)内陸にある、東北高校は、物理的な深刻な被害は免れた。しかし、親族を失い、住まいが流された選手もいる。災害1週間後というチームの春の甲子園大会への参加もまた、流動的であった。

災​​害がきっかけとした混乱で、選手、コーチ、コミュニティが、この国の緊急時に、野球をすることがいかがなものかということを議論した。数年間の練習を経たものの、選手たちは、野球とほとんど神話的意義を持つ甲子園大会への不屈の専念に疑問を持った。結局、彼らは甲子園に行った。苦悩の末のことである。

「選手たちにとって、甲子園は非常に有名で、彼らが行きたいと思っていることは、よく知っている。」タケウチミツルさん、チームのコーチの1人は言う。「しかし、水や電気がないときに甲子園に行くことは、適切な選択のようには思えなかった。確かに、彼らの大きな夢ではあったが、揺らいでいたのも事実だ。特に3年生にとっては、最後のチャンスであった。」

選手たちは、その日、311日の午後は、練習中であった。地震後に停電となり、津波が海岸に激突していた瞬間のテレビ中継を見ていなかった。寮も停電のため、選手の多くは、食料と水を欠くにもかかわらず、避難所となった近隣の学校に逃げ込んだ。強い余震が続き、ほとんど眠れなかった。携帯電話もなく、自分の両親と連絡の取れない選手がほとんどであった。

大阪近郊で開催される甲子園大会に行くことができるだろうか、トバ エイタロウさんは疑問に思っていた。バックアップキャッチャーとチームの副キャプテンにとって、それは最初の遠征となる。しかし、トバさんは、津波による被害を知り、甲子園は待つべきであろうと考えた。

「次の日、私は、テレビや新聞で、海岸沿いの町の状況を見た。」トバさんは言う。「そして、私の中で、野球の問題は突然消え、他人の安全を心配し始めた。」

トバさんと選手たちは、難民センターで支援したり、水を運んだり、料理をしたり、食べ物を探したりしながら、その後数日間過ごした。選手たちは、避難所の皆が終わるまで食事をしなかった。電話回線が復旧し、生徒らは、やっと自分の家や家族と連絡がとれた。

生徒らは、何をすべきかひどく悩んでいた。甲子園大会を出場辞退しても、誰もそのことをねたみはしないだろう。学校の多くが破壊され、数千人の人々が死亡または行方不明であった。そんなに深い悲しみの中で、野球など取るに足らないことのようだった。大会ををキャンセルすると考えられていたが日本高等学校野球連盟は、開催を決定した。福島からのチームは、出場を辞退した。

しかし、隣人やもっと広い世界に対して、災害に直面したその回復力を示すために、選手の多くはチームが参加しなければならないと感じていた。勝っても負けても、フィールドにいる選手たちの姿が感動を呼ぶであろう。

イガラシユキヒコさん、チーム監督は、熟考に熟考を重ねていた。彼とやりとりする生徒の親や、卒業生、他の人のほとんどは、チームを送り出すことに賛成していた。すべての生徒の親に対して、子どもたちが安全であることを通知された後、イガラシさんは、318日、大会に参加することを決めた。主催者に対する参加通知期限のその日であった。

「私がマネージャーとしての5年間のなかで、最も困難な決断だった。」とイガラシさんは言う。「生徒たちは、ショックを受けた。彼らのムードに大きな変化は見られなかったが、緊張感を持っていることは、彼らの表情から伺えた。」

しかし、彼は付け加えた。甲子園で「人々から声援される高揚感は、味わった者でないとわからない気持ちである。」

東北高校側の準備に対する便宜を図り、主催者は大会6日目に、東北高校の初戦を移動した。チームは、開会式でグラウンドを行進した際、一段と大きな拍手を受けたが、1回戦で7-0で敗退した。

甲子園大会に相当するものは、米国にはないが、似たようなものとしては、NCAANational Collegiate Athletic Association)が挙げられる。大学バスケットボールのトーナメントである。しかし、そのイベントは、もっと商業的で、多くの都市で開催される。

日本の夏の甲子園大会は、1915年に始まった。プロ野球リーグが結成される20年前のことである。今年は、4,000以上の高校野球部が、甲子園大会出場をかけて戦う。

福島の原子力災害による電力の全国的な不足から、主催者は、甲子園での夜間照明使用を避けたいと考えている。1回戦は午前8時に開始され、決勝戦は、正午ではなく、9:30に開始する予定である。

とにかく、選手たちは彼らのすべてを出し切るだろう。甲子園での経験は、とても感動的で、試合に負けると、くやし涙で自分の顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼らは、バッグにに球場の土をすくい持ち帰る。

伝説は、そこにも生まれている。1998年には、現在レッドソックスの松坂大輔は、準々決勝で17回に渡る完全試合を投げ抜いた。その2試合後、彼はチームの優勝をかけて、無安打試合を成し遂げた。

日本人は、ひとつの目的に向かって1年中練習し、ほとんどの人々の心にある、汚されてされていない純粋さを持っている選手たちが出場する、甲子園大会が大好きだ。選手たちは、市民の模範のように行動すべきと考えられている。高校野球連盟は、選手が盗みや、喫煙、いじめでつかまった場合には、出場権を与えないことにしている。

ある意味で、日本の高校野球は、教師が軍隊のような規律とともに教えた過去の時代を呼び起こす。東北高校野球部は、このやり方の典型である。選手は、午後230分から午後7時まで、毎日練習。夕食後、彼らは自発的なトレーニングを続ける。唯一の休暇は、年末年始期間中だけである。

負傷した選手たちは、編成を組んだ4方向へランニングをしながら、グラウンドを整備する。センターフィールドのスコアボードには、この言葉がある。「規律なくして、実行なし」

選手たちはグラウンドに入る前に一礼し、チームの初代監督の銅像の前で一礼する。銅像の土台の両側には「甲子園で行進果たす」という言葉が彫られ、併せて、甲子園大会出場を果たした年が記されている。

選手たちが、3月、甲子園から戻った後、彼らは、毎日、数時間かけて、津波の被害を受けた石巻市に通い、雪の中を、瓦礫を運び、道路や家屋の清掃をし、食べ物を配った。

コミュニティサービスは、選手たちに、石巻の人たちがどのような経験をしていたのかを説明した。それには、イトウユウスケさん、15歳も含まれていた。彼は、同じチームメイトで、石巻市の自宅の二階が津波でさらわれた。

彼に残されたものは携帯電話だけで、彼が4月に東北高校に入るまで、避難所で暮らしていた。イトウさんは、仙台への転居はとても不安だったと言った。しかし、練習と厳格な規則にも馴れて、チームメイトとのキャッチボールだけはうれしい気晴らしとなっている。

彼は言う。私にとって、最も重要なことは、「野球部の先輩たちが、私を励ましてくれ、全精力を傾けて私を支援してくれる。」ことである。 
(終)

(記事寄稿:オオサワハルミ、スズキカンタロウ)


2011年7月16日土曜日

ストレス、うつの治療を避ける韓国人(韓国では、毎日30人以上が自殺)

The New York Times 英語原文はこちら
By MARK McDONALD
201176
発信地:ソウル

韓国が、過労、過度のストレスや不安で、国の神経衰弱の危機に瀕しているかのように感じられることがある。理由は、上昇する離婚率、学歴圧力によって窒息感を感じる学生、世界で最高の自殺率、仕事の後の意識を失うほどの飲酒を奨励する男っぽい企業文化である。

韓国では、毎日、30人以上が自殺で亡くなっている。エンターテイナー、政治家、スポーツ選手、ビジネスリーダーの自殺は、かなり一般的になっている。最近起きた、韓国有数の大学の学生4人と教授の自殺は国民に衝撃を与えた。ここ数週間のうちに、野球アナウンサー、2人のプロサッカー選手、学長、そして人気の少年バンドの元リードシンガーの自殺が起きている。

韓国人は、まだ、自身に起きている不安、うつ、ストレスのための西洋心理療法に抵抗している。スマートフォンからインターネットそして美容整形に至るまで、執拗なまでに西洋の技術革新を取り入れているにもかかわらず。精神科医との会話療法、心理学者、その他の訓練を受けたカウンセラーらが、ようやくゆっくりと受け入れられてきている。メンタルヘルスの専門家の話によるものである。

「感情的な問題について率直に表現することは、まだまだタブーである。」とキムヒョンスー博士、心理学者であり、光州にある朝鮮大学の教授は言う。

「うつ病において、韓国人は、それを我慢し、それを乗り越えようとする。」彼は言う。「精神分析医に行けば、彼らの残りの人生に烙印を押されることになる、と考えている。だから、彼らは行かない。」

メンタルヘルスの専門家は言う。多くの問題を抱えた韓国人は、個人の精神科診療所(料金は現金支払)に助けを求める。彼らの保険の記録に、政府の「コードF」の汚名が載らないようにするためである。「コードF」とは精神的なケアのための払い戻しを受けている人を意味する。

韓国人がカウンセリングを求める場合でも、学習曲線が急勾配になる。

著名な精神科医で、ソウルで開業している、ジンセンパーク博士は言う。新しい患者が、診察に来て、40分間、症状について対話し、請求書を見てびっくりすることは珍しいことではない。

「彼らは、言うでしょう。『こんなにかかるんですか?』ちょっと話をしただけで?私の友人や私の牧師とでも、同じようにできる。それもただで。」パーク博士は言う。

患者は、会話療法のより多くのセッションのためにお金を費やそうとはしない。その代わり、ただ、薬を求め、それに期待する患者がほとんどである、とパーク博士は言う。彼のウェブサイトには書かれている。「ほぼすべての薬は、米国で使用されているものですが、ここでも、入手可能です。だから、韓国でそれらの薬を入手することに何の心配も要りません。」

カウンセリングに来るのは、彼の患者の約3分の1だけで、パーク博士によると、残りの患者は、薬に依存していると言う。

「韓国人は、欧米の心理療法に慣れてきてはいるが、これは高度な教育を受けた西洋文化に精通する人々に限られている。」オオキョンジャ博士、ハーバード大学で訓練を受け、ソウル延世(ヨンセ)大学の臨床心理学の教授は、言う。

一方、韓国の自殺率は、驚くほどの数字で、米国に比べて約3倍近くにのぼっている。自殺率は、この10年、1999年と2009年の間に倍増している。オンラインで会う見知らぬ人たちとの自殺協定は、増加している現象である。農薬を飲んだり、首を吊ったり、高層ビルからの飛び降りによる自殺が、最も一般的である。

「我々は、うつ病の急増を見ているが、自殺の8090%はうつ病が産み出していると言えるだろう。」キム博士は言う。政府の精神健康クリニックが、基本的な家族や夫婦間の問題の解決​に効果を発揮していることを示す。「しかし、彼らはうつ病ではない。」と彼は言う。

「この問題は、まだまだ非常に閉鎖的です。我々は、まだそれを隠している。」

韓国社会は、伝統的に、仏教と儒教の信仰によって支えられ、勤勉、禁欲主義、慎み深さに強調されている。個々の関心は、二次的なものと考えている。尊厳や「面目」を維持することは、特に家族のために、非常に重要である。

韓国の精神的な不安感を、伝統的な価値観の衰退と近代的な工業大国として国の台頭が原因だと言う専門家もあり、これは80年代以降に始まった。韓国は、悲惨な北朝鮮以上に貧しい時もあったが、今や世界13位の経済大国を誇っている。

「社会が、物質主義に向かうにつれ、人々は自分自身を比較し始めた。」パーク博士は言う。「今では、多くの競争が子供時代から始まり、人生の目標が変わる。ある諺がある。『いとこが土地を買ったら、他のいとこは腹痛になる。』」

儒教の信仰も衰退しつつある中で、韓国人は、都市生活の喧騒のストレスを発散するため、さまざまな方法を使う。処方薬がなければ。コンサルティングシャーマン、ゴルフやハイキングなどの屋外運動、アルコール、組織化された宗教、インターネット、そして旅行が、現在の一般的なはけ口である。

治療技術関係大臣の講師も務めているパーク博士は言う。キリスト教の牧師によるカウンセリングは、一部の患者にとっては一助になるであろう。しかし、これがプロの治療の代わりにはならないと警告した。「牧師は、患者自身を治療しようとする。」彼は言う。「そして、これはさらに深刻で危険な合併症や、死に至る可能性もある。」

シャーマンに相談することは、多くの韓国人の間ではまだ一般的で、たいてい、うつ病、奇病、不運続きとともに伝わっているからである。確かに、近年、シャーマニズムは、韓国で復活してきており、クライアントに仕えるシャーマンは30万人にものぼると推定されている。

ムダングとして知られているシャーマンの多くは、昨今、とても洗練されたウェブサイトを持ち(オンライン占いを備えている)、彼らは、鶏を絞めし続け、かみそりの刃の上を裸足で歩き、その霊が樹木、煙突、森林の生き物に宿っている死んだ親戚と心を通わす。

「韓国人たちは、精神科医よりも占い師を当てにしている。」ユンダエヒュン博士は言う。彼は、ソウル国立大学病院で精神科医であり、自殺防止協会の関係者でもある。「我々の最大のライバルは、占い師とルームサロンである。彼らは、確かに私達よりももっとお金を稼いでいる。」

ルームサロンは、酒好きのビジネスマンが頻繁に利用する、仕事帰りのクラブである。お客は、夜な夜な、高価な飲み物のしつこく勧めながらそれらの問題に耳を傾ける個人的なホステスの群れを選ぶ。

ユージョングさんは、デイリーモーションの占い師である。デイリーモーションとは、コーヒーを購入すると15分間占いするシステムのソウルにあるカフェである(無料のワッフルが付いてくる)。

「精神科医は、患者を患者として治療するので、皆は、医者に対し、すべてを話さない。」と彼女は言う。「若い人たちは、ここに来て私にすべてを話す。両親にも言えないようなことでも。」

韓国の若い人々は、確かに幸せではない。しかも慢性的で、幼い段階から始まる猛烈な学歴圧力も、原因の一部になっている。ここ最近の調査では、韓国の若者が、 経済協力開発国機構(OECD)の中で最も不幸な若者であることが発表された。3年連続 である。

ユーさんは言う。彼女は、1日あたり約50人の相手をする。通常は、恋愛、結婚や転職のアドバイスを求めているカップルや友人の小グループである。

「韓国人は、自分自身用の『パッケージ』、独自の救済セットを見つけようとして、もちろん、とても真剣にやっている。」オー博士、延世大学教授は言う。「彼らは、ストレスから逃れるために、必死にやるべきことを探している。彼らには、ただ、いい模範がいないんだ。」

(記事寄稿:スーヒュンリー)