2011年4月23日土曜日

石碑に刻まれていた津波の警告「これより下に家を建てるな。」

The New York Times (オリジナル原文はこちら)  (ビデオはこちら)
By MARTIN FACKLER
掲載日:2011年4月20日
取材地:岩手県宮古市姉吉


石碑は、住民たちが生まれる前からこの森の小高い丘の上に立っている。その風化した表面に刻まれた厳しい警告に、住民たちは忠実に従っていた。「これより下に家を建てるな。」

住民は言う。先祖からの教えのおかげで、日本沿岸の数百マイルを襲いすぐ近くまで記録的な上昇をした凄まじい津波から、11世帯の彼らの小さな村は守られた。

「昔の人は津波の恐ろしさを知り、私たちに警告するための石碑を建てた。」村長のキムラタニシゲさんは言う。

何百もの津波にまつわる石碑には、600年以上経つものもあるが、地震の起きやすい日本の海岸線に点在し、致命的な津波に襲われた過去の被害状況を、静かに証言している。しかし、現代日本では、高度な技術と高い防波護岸が脆弱な地域を守ってくれると確信し、いつしかこれらの先人の警告を忘却し無視するようなった。そうして、3月の津波に襲われた苦い経験を、​繰り返す運命にあるのだ。

「石碑は数世代に渡る警告で、先祖が受けた同じ苦しみを避けるようにと、子孫に受け継がれた。」キタハライトコさんは言う。彼女は京都の立命館大学で自然災害の歴史を専門としている。「そういった教訓に心に留める地域もあったが、多くのものははほとんど無視されてきた。」

一般的な平らな石碑は、高さ10フィート(約3メートル)程度のものもあり、日本の北東海岸に沿ってよく見られ、今回ほぼ29,000人が死亡または行方不明となった3月11日のマグニチュード9.0の地震による津波の矛先を示していた。

石碑の中には、古すぎて文字が摩耗しているものもある一方で、ほとんどの石碑は約100年前の2度に渡り致命的な被害をもたらした津波の後に建てられている。1896年の津波は22,000人が犠牲になった。強い地震の後はすべてを捨てて高い場所へ向かえといった、簡単な警告を記している石碑が多いなかで、過去の犠牲者数のリストや集団墓地を記すことによって、津波の破壊力の凄まじさを伝えているものもある。

3月の津波では流出した石碑もある。科学者の説では、今回の地震は869年の貞観地震以来の最大の地震となり、数マイルの内陸部にまで砂層を及ぼす津波となった。

姉吉の石碑は、具体的に家を建てる場所を示している唯一のものだ。しかし、この地方で使われている地名で、津波から難を逃れた場所であることを示しているのではないかと思われるものがある。Nokoriya or Valley of Survivors (残る谷?)Namiwake or Wave's Edge(波分け?)などがその例で、後者は、専門家の説では、1611年の津波の際に最長到達地点を記しており、海から3マイル(約5キロ)離れた場所である。

地元の専門家たちが言う。姉吉のように先人の警告に留意し住宅を安全に高地に建てるような市町村はほとんどない。概して、終戦後に海岸線の市町村が発展する上で、石碑やその他の警告は無視されてきた。かつて高い場所に移り住んだ自治体ですら、結果的には漁船や漁網に近い海岸線に戻ってきていた。

「時間が経つと、人々は必然的に忘れる。10,000人が犠牲となるような次の津波が来るまで。」岩手県の歴史家であるヤマシタフミオさんは言う。彼は津波に関する本を10冊書いている。

ヤマシタさんは87歳で、寝たきりで入院していた病院が津波に襲われた時に、カーテンにしがみついて生き延びた。彼は言う。日本は、学校で津波の伝承を教えるのを怠ってきた。国は、新たな津波防波堤やその他の現代的なコンクリートの壁を建設する代わりに、その内側に商店を作りすぎた。それらの防波堤は3月の津波では全く役に立たなかった。

それでも、ヤマシタさんや地元の専門家は言う。石碑やその他先人の教えは、津波に対する警戒に広く貢献している。これ以上犠牲者数が増やさないと信じて行う毎年の避難訓練にもそれが伺える。

姉吉の石碑が記しているのは、「高い場所に住めば、我々の子孫の平和と幸せが訪れる。」村長であるキムラさんはこれを碑文と呼ぶ。「我々の祖先からのきまりを、姉吉の村民たちは誰も破らない。」

小さな村の唯一の道路の脇に、4フィート(約1.2メートル)の高さのその石碑は建っている。その村は、海につながる狭く、杉の木の多い谷に位置している。石碑からの坂を下ると、まだ塗装したての青いラインが道路に書かれている。それは今回の津波の到達地点を示すものだ。

先週出た、ある大学の発表によると、3月の津波は姉吉で最高地点127.6フィート(約38.9メートル)に達し、1896年に岩手県内で記録した 125.3フィート(約38.2メートル)を上回った。

塗装ラインのすぐ下では、その谷は突如として破壊された景色と変わる。谷の壁は木々や土壌がはぎ取られ、露出した岩だけを残している。その村の小さな漁港に残されているのは、津波で打ち砕かれた防波堤の巨大な固まりが小さな湾に散らばっているだけである。

キムラさんは、津波で漁船を失った漁師である。彼は言う。この村は、1896年の津波の後、まず高台へ移った。その時は生存者は2人だった。その数年後、人口が増えてこの村は海岸線へ戻ってきた。そして1933年の津波に再び襲われ、その時の生存者は4人だった。

そして村は高台へ移り、その石碑が建てられた。キムラさんは言う。誰がその石碑を建てたのかは、34人の村民の中でも今では誰も知らない。石碑のおかげで、1960年の津波からも村は救われていると村民たちは信じている。

「あの石碑は、来たる100年のうちに、また津波がやってくることを子孫たちに警告する一つの方法だった。」キムラさんは言う。

今日の日本人にとって、石碑は過ぎ去った時代の遺物で、書かれている言葉は時代遅れの不可解なものに映るかもしれない。しかし、専門家らは言う。その石碑のおかげで、日本人たちが津波に対する警告塔としての新しい記念碑を造ろうとしている。このインターネットやテレビの視覚的な時代に適した方法によるものだ。

ひとつの考えとしてある研究者グループは、この津波の破壊力を忘れないように、津波で損傷した建物をいくつかそのまま保存することを求めている。核戦争に反対する広島の原爆ドームのような考えだ。

「我々には、現代版の石碑が必要だ。」盛岡の岩手県立博物館の地質学者である、オオイシマサユキさんは言う。

姉吉村は生き延びたが、住民たちは残念ながら喜べるムードではない。4人の村民が、先月死亡したのだ。母親とまだ小さな子供3人が、隣町で車ごと津波にさらわれたのだ。

母親の名はアネイシミホコ、36歳。地震の直後、彼女は学校にいる子供たちを連れ出すため慌てて学校へ向かった。そして彼女は、間違えて海抜の低い場所を通って村へ戻ってこようとしたその時に、ちょうど津波が打ち寄せた。

村の高齢化した住民たちは言う。いつも高いところ、高いところと津波を生き抜く基礎を、もっと今の若い人たちに教えるようにもっと努力するべきだったと後悔している。

「我々の先祖を誇りに思う。」犠牲となった子供たちの祖父、69歳のアネイシイサムさんは言う。「でも石碑も、すべてから私たちを救うことはできません。」
(終)

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