2011年6月30日木曜日

危険な原子炉での作業を志願する高齢者グループ

The New York Times オリジナル原文はこちら
By KEN BELSON 
掲載日:2011627
発信地:東京

福島で、困難な原子炉をなんとかして冷却しようと、骨を折って働いている何千人もの人々が従事している仕事は、日本人が考える、汚い、きつい、そして危険なものである。

ところが、ヤマダヤステルさん、72歳は、その仕事に参加したいと熱望する。テレビで、第一発電所における損傷を制御するために、数百人の若い男性たちが奮闘しているのを見て、ヤマダさんはあるアイデアを思いついた。それは、制御困難な原子炉を飼いならすために、高齢のエンジニアや他の専門家を募集することである。

彼らは、必要なスキルをいくつか持っているだけでなく、高齢なので、高レベルの放射能被ばくの結果で、ゆっくりと進行する癌や他の病気にかかる危険性が低いからである。志願する彼らは、子供ができなくなる、またはもっと悪いケースの可能性の危険から、若い日本人たちを救うであろう。

「我々は、この事故を食い止めなければならない。そのためには、誰かが作業を行う必要がある。」ヤマダさんは言う。彼は、住友金属工業で働き、退職したプラントエンジニアだった。「我々は、そこで働いてもダメージが少なくて済むので、高齢世代が仕事を引き受ければ、社会に利益をもたらすだろう。」

壊滅的な地震と津波が発生した数週間後、彼とシオタニノブヒトさん、彼もまたエンジニアであり子供の頃の友人であるが、4月初めに、熟練したベテラン軍団を結成した。彼らは、数千の電子メールや手紙を配信し、さらにTwitterのアカウントを設定した。彼のブログでは(bouhatsusoshi.jp/english)、ヤマダさんは、「このフロントライン作業負担に耐えうる物理的な強さと経験を」持っている60歳以上の人々に呼びかけている。

反応は速かった。約400人が志願してきており、歌手、料理人、82歳の男性もいる。約1,200人は、支援を提供してきた。寄付金は430万円(54,000ドル)を突破している。彼のブログは12の言語に翻訳されている。

ヤマダさんは、優しい話し方の、癌を克服した経験のある方だが、今回は簡単な目標から始めた。しかし、この動きは、原子炉を所有する東京電力にとっては労働者のやりくりがますます困難となることが予想され、志願活動の意義と立ちはだかる現実における、日本の高齢者の役割についてより広い議論を広げる引き金となった。専門家には、対応を支援する労働者を、日本が最終的に輸入することを考える人もいる。3,000人以上の労働者、パートタイマーの多くが、第一発電所で働いている。すでに、熱中症に苦しんでいる人もあり、9名は、法定限度を超えて放射線を浴びている。数十名の労働者は、出勤を取り止めている。

ヤマダさんと彼のグループは、自分たちのことを、より良く役立つことをあきらめた無私の愛国者、愚かにも危険の最中に喜んで自分自身投じようとする変人、または時間を持て余している年金受給者だと表現する。この説明は、ポイントを押さえていない。シオタニさんは言う。彼は、より実用的なアイデアを考えていた。

「原子力発電所は、科学者やエンジニアの発案によるものである。」と、彼は言う。「彼らがこの混乱を招き、そして、彼らが、立て直さなくてはならない。」

この危険な状態では、支援したいことと、許可されていることは、異なるものである。議員たちは、当初、志願者らをばかにした。菅直人内閣総理大臣の側近である細野補佐官をはじめ、先月、記者団に対し、福島での作業において「自殺の軍団」はまだ必要ないと言っていた。

しかし、「彼らが、この状況を解決するために、自分たちの生活を犠牲にして、志願することは非常に貴重である。」細野氏は、後になって、こう説明した。「彼らは、ある程度の年齢にあり、フルフェイスマスクでそのような危険な環境で作業したことで、後で病気になってもらっては困る。」

しかし、良い気分にさせるストーリーに飢えているこの国では、熟練したベテラン部隊の話は、多くの人々の心を掴んでいる。インタビューのための要求は、世界中から注がれている。政治家らも徐々に乗り気になってきた。66日、ヤマダ氏は海江田経済産業大臣に会い、大臣は、「皆さんの熱意が冷める前に」志願者グループを支援すると約束した。

「私は、なんと大胆な発想だと思いました。多くの日本人や外国人が福島に行くことを恐れているこの時に。」牧山ひろえ議員は言う。彼女は、プロジェクトを推進支援している民主党参議院議員である。「誰もそこで死ぬつもりはありません。「彼らは、本当はしたくないんです。でも、これを行う必要があると感じているんです。」

ヤマダさんは、自宅で仕事をするのが忙しくなったので、東京の新橋地区で、狭いエレベーターのないのオフィススペースを、いくつか見つけた。複数のコンピュータと質素な部屋、お湯用ポットと折りたたみ椅子が数台、ヤマダさんと彼のチームは、非営利団体になるための申請をし、7月に第一発電所を訪問する申請書の承認を待っている。

ヤマダさんとシオタニさんは、言う。彼らの仕事で最も困難なのは、東京電力の職員とやり取りをすることではないだろうか。エンジニアとしての2人は、相手を理解している。相手は、間違いなく大変忙しく、おそらく自尊心を傷つけられ、この規模の被害と、会社が転落する状況を蒙っている。

しかし、高賃金のコンサルタントや取引会社とは異なり、熟練したベテラン軍団は、アイデアやハードワークを除いて、何の利害関係もない。志願者として、彼らは利益相反なく、率直に話すことができる、と彼らは言う。それでも、ヤマダさんとシオタニさんは、謙虚でなければならないと認識している。ヒトツギヨシミ氏、東京電力の広報担当者は、会社は、援助の申し出を「高く評価」しているが、まだ志願者の皆さんに何ができるか、そして、どのように彼らの安全を確保するかについては、検討中である、と話す。

ヤマダさんは、熱心なサイクリストである。夏の間は暑さと湿度が強烈なので、秋まで、第一原発での作業は始めたくはない、と言う。どんなときも、エンジニアは、高齢労働者だからではなく、急いて事を行うべきではない。

「私たちは、決して、無謀な行動や、無意味な行動は取らない。」と、ヤマダさんは言う。「我々は、無益な作業を行うことはない。」

(カミイズミヤスコ、記事寄稿)
(終)

ロック伝説、ポール・サイモン「私は、何も変えるつもりはない。間違いであろうと。」

掲載日:2011年6月23日


ジェフリー・ブラウン:そしてついに今夜、60年代の「サウンド・オブ・サイレンス」から、現在の「ソー・ビューティフル・オア・ソー・ホワット」へ。
先日、伝説的なソングライター、パフォーマーであるポール・サイモンと対談を行った。

(MUSIC

ジェフリー・ブラウン:彼の新しいアルバムのタイトルトラックである、「ソー・ビューティフル・ソー・ホワット」、69歳のポールサイモンはまだ、遊び心のあるフレーズを口ずさみ、曲を通して人生を検証する。

(MUSIC

ジェフリー・ブラウン:ファンの大半の世代は、サイモンの歌を覚えながら育ってきた。通常、曲を書くときには、言葉ではなくてリズムとサウンドが最初に浮かぶんですね。それを聞いた時には少し驚きましたが。

ポール・サイモン:どういうわけか、サウンドが私の中で正しいと認識されると、物語が始まるんです。私は曲を書き始めるときに、何を書くつもりだかわからない。それは、道を歩いているように。曲がった道の向こうに何があるのかわからないし、どこへ行こうとしているのかも分からない。そこがおもしろい。

ジェフリー・ブラウン:もちろん、今でも、ポールサイモンは象徴的な地位にあり続けている。2007年、彼は、「ライブラリー・オブ・コングレス ガーシュイン・プライズ フォー ポピュラーソング」の初めての受賞者に選ばれ、グラミー賞を含め数多くの栄光にも輝いてきた。

しかし、彼はまだ、彼の幼年期の友人アート・ガーファンクルとサイモン&ガーファンクルを結成し、時代を象徴するに等しい楽曲を送り出してきた、クイーンズ出身の子供と何も変わってはいない。デュオは、1970年に解散。その後、サイモンは、12枚のソロアルバムを送り出している。

彼は、南アフリカのミュージシャンと録音した1986年のアルバム「グレースランド」では、ロックンロールの歴史を作り続けている。彼は、2回のニューヨークのセントラルパークでの巨大コンサートを、1991年にはソロで、その10年前にはとサイモン&ガーファンクルとして開催し、数十万人を動員した。

彼の新しいアルバムは、コネチカット州の彼のホームスタジオで録音された。神や死への話題に満たされ、「ゲッティング・レディ・フォー・クリスマスデイ」ではまじめに、「アフターライフ」では、天国と官僚主義の悪夢にユーモアを織り交ぜている。

(MUSIC

ジェフリー・ブラウン:先日、ツアー中のワシントンのDARコンスティテューションホールでの公演の際に、我々は会った。私は、サイモンに、歌詞が重い内容なのは彼が70歳になろうとしていることに関連しているのかどうか、と尋ねた。

ポール・サイモン:70歳になること以上だね。

ジェフリー・ブラウン:本当?

ポール・サイモン:私が70歳になることとつながりがあるとは思うけど、それは意図的ではないよ。
私自身驚いたのは、最初の6曲を書いていた後、そのうちの5曲が、「ゲッティング・レディ・フォー・クリスマスデイ」でのクリスマスとかを含めて、神やそのようなこと歌っているように思えた。驚いたね。

ジェフリー・ブラウン:あなた自身、驚いた?

ポール・サイモン:そう。私は、何が起こっていたのか、と考えた。
私が書くものは、私が知っている誰かや、私に起こった何かに関連するものとしてわかる部分はある。そして、私が書くものは、長い時間が経過しないと、私にもわからない部分もあるんだ。そして、私は、後でわかるんだ、ああ、それはこのことだったんだ、と。

ジェフリー・ブラウン:サイモンのツアーは、8人編成のバンドであるが、新しい曲の中でも「クエスチョンズ・フォー・エンジェル」のように、以前のように単純に、ギターだけで書かれたものもある。

ポール・サイモン:サイモン&ガーファンクルの曲はすべて、ギターだけで作った。

ジェフリー・ブラウン:そうですか。

ポール・サイモン:リズム主体ではなかったんだ。リズム主体のものは、少ししかなかった。思うに、「ミセス・ロビンソン」がリズム主体の最初じゃないかな。

(MUSIC

ジェフリー・ブラウン:これが最初に頭に浮かぶんですね?

ポール・サイモン:そう。

ジェフリー・ブラウン:「ミセス・ロビンソン」は、今でも、何百万人もの人々にとって、遠い記憶や郷愁を呼び起こすサイモンのたくさんの曲のうちのひとつである。
ということは、彼自身、昔のことに思いを馳せることが多いのか、とたずねた。

ポール・サイモン:そうでもない。あるとしても、それは60年代よりも前のことだろう。50年代だね。そう、十代の頃、13歳から15歳あたり、みんなそうだと思うけど、聞くものすべてを、徹底的に、そして完全に吸収してる。

ジェフリー・ブラウン:その頃のこと、何かおぼえていますか?

ポール・サイモン:ああ、まるで写真を見ているようだ。自分自身のこと、自分が育ったことの近所のこと、頭の中の写真だね。そう言えば、昨日、息子のリトルリーグのチームのコーチをしたんだ。彼は、13歳。
センターを守ってる。
そう、私が昔、野球をした場所なんだ。彼はね、そう、自分に似てる。13歳の頃の自分に。見た目は自分の方が少しましだけど。
それで、彼はセンターにいた。はっきりと覚えているよ。

(MUSIC

ジェフリー・ブラウン:「リライト」新しいアルバムに収録されている曲の一つの中で、ポールサイモンは、より良い人生になるように、昔に戻って人生の物語を書き換えるようとすることにしたキャラクターのことを歌っている

(MUSIC

ジェフリー・ブラウン:この曲が示唆するように、私たちは常にそう願うけれど、この書き手は、彼は、物事はどうにかうまくいくことに満足している、と書いていますね。

ポール・サイモン:私は、書き直さないよ。私は、何も変えるつもりはない。間違いであろうと。だって、自分自身が変化しているのがわからないんだから。それに、何のために変える必要がある?物事は、おおむねうまく行くんだ。知ってるだろう。それは、自分がほとんど文句を言えない、という意味でね。

ジェフリー・ブラウン:これからも、楽しんで、曲を書き、アルバムを作り、ツアーで出かけるのですか?

ポール・サイモン:ああ、そうです。私はとてもラッキーだ。本当ににラッキーだと思う。本当に好きで、楽しんでる。いつも、今までもそうだった。私が12歳のときに、なりたかったものなんだ。私はその通りのままだね。色々な意味で。

ジェフリーブラウン:ポール・サイモンは、今、ツアー中である。新旧の曲を歌いながら、夏を通して世界中を巡る

(終)

2011年6月25日土曜日

老犬の魂、アメリカ各地から

LENS (The New York Times)

By KERRI MACDONALD
掲載日:2011623日、5:00 AM

人間と同様、犬も年をとる。犬は、目が弱り、体が痛む。
人間と違い、犬は幸せにも何も知らないで老いてゆく。

もしくは、ナンシー・レヴァインさんには、彼女のペットであった、ルルとマキシーに、若かりし黄金時代を見たのかもしれない。この老犬の姉妹は、彼らが所有するの最初の本「真実の犬の本」の題材となり、8年に渡る努力となった「アメリカ各地の老犬たち」を生むきっかけとなった。

レヴァインさんは、人間と犬との間の相互作用を調べたかった。犬が、米国の家庭において、最も一般的で愛情で結ばれているからだ。彼女は決めた。年老いた犬は特に、彼らの飼い主の生活の場所が彼らの場所だから、そこで動き回る。事情はいろいろあるが。彼女は、このプロジェクトを、「アメリカ人」を犬のようなものとしてを見ている。アラスカからコネチカットに至る、この国を眺める窓として。

レヴァインさんは、 言うまでもなく「犬の写真家」だが、まぎれもなく犬を愛している。彼女は、ニューヨークとシアトル間を行き来する。彼女は今、2匹のミニチュアオーストラリアシェパードを飼っており、5歳のハービーと、7月に4歳になるソシである。

彼女の対象である老犬は、保護区に収容されたものもある。彼女は、獣医と連絡をとった。彼女は「犬の人々」連絡をとった。プロジェクトが進むにつれて、レバイン氏は、それぞれの犬は、人間のように、それぞれのやり方で彼女の写真を特徴づけることがわかった。写真は、かわいい。そして、犬の目には、深さがある。高貴さ、さらには風格を漂わすものもあり[スライド2]。あるいは、ふと子犬時代のことを思い出しているように見えるものもある[スライド48]

彼女レバイン氏は、およそ、15歳以上の犬を求めている。大柄な犬は大丈夫だが、あまり長生きではない。彼女は本を発行するまで、彼女は提案を聞く。

「もし、誰かがウィスコンシン州で20歳の犬がいると言うのなら、」彼女は言う。「私は、すぐに飛行機に乗るだろう。」(我々と話した日、ある飼い主からのメールをもらった。その犬「老紳士」は、18歳、関節炎に苦しんでいる犬で、「少し偏屈なシェットランドシープドッグ」だと説明された。悪い腰はさておき、彼の若々しい心で持ちこたえている、と飼い主は言った。)

レバイン氏は、彼女のプロジェクトを、死についてのことだと考えてほしくない。それは老いることの尊厳と、おそらく何よりも、人間の懸念に関係なく、老いることの喜びを伝えたい。

「犬は、今を生きている。」レバイン氏は言う。「我々は違う。我々の体はもろい。我々は、過去のことを、もっと違ったようにできたのではないかと考え、将来のことを、私たちに何が起こるのか、と考えている。」

(終)

2011年6月24日金曜日

Healthyca (ヘルシカのサンドイッチ)

やっと、念願のサンドイッチを食することができた。



お店は、ドアを開けるとレストランキッチンのようなにおいが広がり、キッチンの中にレジカウンターがあるような感じである。注文したのは、

grilled veggies
breads: multi-grain wheat
sides: fresh fruit
$8.95+tax=$9.82



とてもおいしい。野菜だけだと物足りないかと思ったが、まさにtasty! パサパサした感じもなく、うまく調理されていて、ソースもおいしい。野菜自体に力があるように感じた。それでいておなかにもたれない。こんなサンドイッチは初めて食べた。



場所は、ユニバーサルスタジオ付近。サイトはここPrintable menuをクリックすると、住所、営業時間がわかります。土日はやっていません。

2011年6月22日水曜日

ヴィーナス・ウィリアムズ、(伊達との)接戦を制し3回戦に到達−ウィンブルドン テニス

By CHRISTOPHER CLAREY
2011622
発信地:ウィンブルドン、イギリス  


それはまるで 時間が止まっていたかのようだった。ポリエステルのガットと電子制御の線審ではなかった時代、オールイングランドクラブの関係者たちが彼らの神聖なセンターコートを屋根で覆う計画を、まだばかにしていた頃である。

しかし、もしセンターコートに、その屋根がなかったら、この水曜日の午後の、伊達公子-クルムのすばらしさや、彼女の古風なゲーム運びと多様なスキルに驚きそしてあえぐことも、そして、9月に41歳になる女性とは思えないほど各コーナーへグランドストロークを打ち込み全身を伸ばしてボレーポイントをたたき出す姿に驚嘆することは、できなかったかもしれないのだ。

伊達クルムが、前回、この最も象徴的なテニスコートでプレイしたのは15年前だが、彼女は今回の3時間近くの第2回戦の試合で、そんなブランクを吹き飛ばしてしまった。唯一欠けていたものは、大番狂わせだった。彼女は最後の最後でたじろぎ、ヴィーナス・ウィリアムズが6-76-8)、6-38-6で、最終的に勝った。

ウィンブルドンで5回、シングルスのチャンピオンとなっているウィリアムズは、股関節屈筋の負傷で約5ヶ月行方不明の後、今年の試合に急に戻ってきた。彼女は、つい先週のイーストボーンの試合から戻り、ルーマニアのモニカ・ニクレスクまたはスペインのマリア・ホセ・マルティネス・サンチェスの勝者と対戦するオールイングランドクラブの第3回戦に向かう。

明らかなのは、彼女が伊達クルムのような相手には、もうぶつからないことである。伊達クルムは、器用で小柄な日本のスター選手で、水曜日の長い試合では、彼女のフラットなフォアハンド、タッチボレー、そして戦術的な揺さぶりで、ウィリアムズをふらふらにさせた。

伊達クルムがウィンブルドンで初めてプレーしたのは1989年、今年のウィンブルドン女子参加選手のうち36人はまだ生まれていなかった時である。伊達クルムが前回、センターコートでプレーしたのは1996年で、シュテフィ・グラフに準決勝で敗れた時である。ツアーと注目に疲れ、彼女はその後、長い間ゲームから遠ざかった。彼女の30代後半に向けて、スポーツへの情熱を再発見するためだけに。

その情熱は、水曜日の最初のポイントから伝わってきた。彼女は若者のように芝生を走り回った。伊達クルムは、ウィリアムズからまず第1セットを奪い、第2セットも3-0までリードしたが、5-1と劣勢となり、その後ウィリアムズが試合を引き寄せ始めた。しかし、のしかかるプレッシャーにもかかわらず、伊達クルムはくじけずに、第3セットでも力強いショットでウィリアムズをプッシュし続けたが、最終ゲームは4つの凡ミスを重ねるよろめくゲームとなってしまった。

(終)

追伸:オリジナル原文の記事写真では、伊達さんのそれでもまだ悔しそうな表情が伺えるのがうれしい。

2011年6月21日火曜日

原子力規制体制の変更を計画する日本

By MARTIN FACKLER
2011621
発信地:東京

福島原発事故での、監視の役割を果たしていなかったという批判に応えて、日本政府は、早ければ来年に、原子力規制機関をより独立したものにする意向である。

海江田経済産業大臣の、月曜日のウィーンでの話では、政府は、日本の原子力産業の推進役を担っている通商産業省から、規制機関を分離したい、と考えている。政府と産業界との間のなれ合いのため、大津波と不十分なバックアップ電源システムに対する対策が不十分な福島第一発電所であるにもかかわらず、そのまま稼働させていたということが、今では広く非難されている。これらの脆弱性は、311日の大地震と大津波による悲惨な災害で証明された。

海江田氏は、国連の核監視役である国際原子力機関(IAEA)の会議中、改革に関する漠然とした公約を述べた。会議で、アマノユキヤ事務局長は、IAEAが過去の日本の原子力監視に対し繰りかえし行ってきた批判に対応して、「真に独立した」原子力規制当局でなければならない、と言った。

また、日本で広範な批判がなされている通り、独立した規制当局がないために、原子力災害の初期段階に不慣れな対応をもたらした。政府は、発電所を運営する東京電力株式会社に対し、災害対応のほとんどを任せているが、東京電力は、今になってやっと核燃料が3つの原子炉でメルトダウンを起こしていたことを認めているような状態である。首相官邸の当局者は、災害以来、東京電力だけからでなく、海江田氏の経済産業省や規制当局からも、不十分な情報しか得ていないと訴えている。

海江田氏は、規制機関である原子力安全保安院を切り離すことが、監視を強化するために考えられる提案のひとつである、と言った。

IAEAは、すでに、日本の規制機関は独立性が欠如していると、何度も批判しており、直近のものでは、先週提出された5月に福島の原発を訪れた調査チームによるレポートである。2007年にも、日本の他の地域で発生した地震のため、別の原子力発電所が被害にあったケース対し、IAEAは、原子力規制機関と、日本の原子力産業の確立を導いた経済産業省の間に大きな壁を作り、規制機関を独立させるように要求をしていた。

(終)

2011年6月20日月曜日

シャーロットR.ブルームバーグさん、ニューヨーク市長の母、102歳で死去

By ELIZABETH A. HARRIS
紙面掲載日:2011620


ブルームバーグのオフィスからの声明によると、ニューヨーク市長マイケルR.ブルームバーグの母であり、彼のために励まし、知恵を授け続けた、シャーロットR.ブルームバーグさんが、マサチューセッツ州メドフォードの自宅で、この日曜日に死去した。彼女は、102歳だった。

彼女は、ここ数ヶ月、容態が悪化していた。

「今日、私の妹、マージョリー、そして私は、母、シャーロットを、失った。すばらしい102年の生涯とともに。」その声明は述べている。「私たちの家族の中心として、私たちの母親が持っていた、非の打ちどころのない完全性、熾烈な独立性、そして絶えまない愛情は、私たち家族の生活と、彼女を知る多くの人たちの生活にとって、強く形作られた贈り物である。」

ブルームバーグ夫人は、彼女の息子の生活の中で、永続的かつ強い存在であった。市長は、ほぼ毎日その母に電話を入れ、ここ数ヶ月は、彼女のメドフォードの自宅にも頻繁に訪れていた。

彼女は、彼の最初の2つの就任式典に出席し、彼は、彼女が持っていた聖書で就任の宣誓を行った。彼は、政策決定の考えを説明するための記者会見で、時々、彼の母親のことに言及するが、ブルームバーグ夫人は、スポットライトを逃れ、もっぱらメドフォードに滞在することを好んでいた。

ブルームバーグ夫人は、1909年にジャージーシティのシャーロットルーベンスで生まれた。彼女は、1929年、ニューヨーク大学で会計学の学士号を取得。彼女は、1934年にウィリアムH.ブルームバーグさんと結婚した。

家族は、1945年、メドフォードに移住し、そこでブルームバーグ夫人は、子供たちを育て、奉仕活動や、ボストンでのオフィスマネージャーとして働いた。ウィリアムブルームバーグさんは、1963年、死亡した。1990年代、彼女は、彼女のシナゴーグ(ユダヤ教徒の礼拝堂)である、シャローム寺院の共同社長であった。そしてその後も、彼女は、毎日、2つの新聞を読んだ。

彼女の息子に加えて、彼女の娘、マージョリーB. Tivenと、5人の孫、そして3人の曾孫が遺族となった。

ブルームバーグ市長の中産階級のルーツは、長い間、彼の表向きの人格の一部となっている。そして、彼は、ビジネス、後に政治で、素晴らしく成功する一方、彼の母は、家族が1940年代に転居した家で、中産階級の暮らしを続けた。

彼女は、公共の目を避けてはいたが、彼女は、明らかに強い意見を持ち主で、2006年、彼女の息子の自伝記事の間違いを指摘するため、ニューヨークタイムズに電話をし、そして、幼少時の家庭生活について詳しく付け加えた。

自叙伝には、彼がメドフォード生まれだと書かれていたが、彼女は、彼の実際の出生地はボストンだと述べた。

「彼は、ブライトンのケンブリッジストリートにあるセントエリザベス病院で生まれた。」ブルームバーグ夫人は言った。ブライトンは、ボストン西部の労働者階級の地域である。

家族は、その後、ブルックラインに転居した。しかし、家主がそこをアパートにしたい、と言うので、マイケル(市長)が4歳のとき、家族はメドフォードの Ronaele Roadに移り住み、これが最後の転居となった。(「Eleanorは逆綴りだ。」彼女は指摘した。)

このインタビューの時、ブルームバーグ夫人は97歳であった。

David W. Chen 記事寄稿)
(終)

2011年6月19日日曜日

原発危機の最中、深刻な不信問題 (全文)

By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER  
発信地:東京
紙面掲載日:2011612



312日の夕方、福島第一原子力発電所最古の原子炉は、水素爆発を起こし、完全なメルトダウンの危険にさらされた。菅首相は、原子炉を冷却するために海水を注入する危険性を比較検討するよう、側近らに依頼した。

自身のキャリアを日本の産業界と官僚の間の癒着の疑いに基づいて構築してきた菅首相は、この重要な瞬間には、ほぼ暗闇の中で行動していたことが明らかになった。彼は主要原子力監査員からまぎらわしい危険性分析を受け取っていた。その監査員は熱心なプロの原子力学術員であるが、首相は信用していないと首相側近は言った。その監査員はまた、原発を運営する会社のもくろみに慎重で、問題を隠蔽しようとした経緯からも考えられることである。

菅首相は、すでに海水を使用し始めていたことを知らなかった。首相官邸の雰囲気の推測から、東京電力は発電所管理者に停止を命じた。
しかし、管理者は日本企業としては考えられないことを行った。彼は、指示に従わず密かに海水を使用し続けたのだ。専門家は言う。より深刻なメルトダウン危機をほぼ確実に防止したであろう決定により、彼は予想もしない英雄となった。

複雑なドラマが、チェルノブイリ以来の最悪の日本の原子力災害に関する処理の背後にある亀裂らを露出させている。災害は、最終的に原発のの6つの原子炉のうち、4つで爆発が起きた。菅首相側近、政府官僚、及び会社当局の間で、相互に疑わしい関係が、滑らかな意思決定を妨げたのである。

ドラマの中心は、よそ者扱いの首相で、彼は迅速な行動の必要性を感じていた。しかし、首相は、原発の作業員、従順な官僚、そして思いやりのある政治家の間の強力な連携システムに根本的な不信感を持っていたため、多くの情報をふまえた上で意志決定をするために利用されるべき情報源が、首相から奪われたのである。

かつては草の根の活動家であった、菅首相が危機管理を行うのに苦労していたのは、この未曾有の原発危機に対応するために、彼の前任者らによって確立されたまさしくその構造、連携システムに頼ることができないと感じたからである。
そのため、彼は最初、原子力発電所についてほとんど知らない、かろうじて工場のオペレータや原子力規制当局と情報を交換できる、親しく圧倒的な少数の顧問たちだけを頼っていた。津波による人道的災害を管理するために苦労しながら、菅首相は、原子力危機を悪化させる政府の対応を即興し、個人的に原発へ介入したり東京電力に任せたりで、対応を迷っているかのようであった。

「遅れがあった。まず第一に、我々は東京電力から正確な情報を得ていなかった。」マツモトケンイチ顧問は語る。しかしマツモト氏は、東京電力と官僚に対する首相の不信感が、全体的な対応に「影響した」と付け加える。

初期の混乱で、米国政府が大変に心配したため、断固たる行動をしっかり取ることや情報を共有することで協力するようにと圧力がかかり、日本をますます煽ることとなった。さらに事態を悪くしたのは、初期段階での米国の援助を受け入れるの嫌がったことだ。そのとき、アメリカはポンプ車、無人ロボットやアメリカの原子力危機の専門家のアドバイスを提供しようとした。

「我々が負のスパイラルに陥っていることを知り、それで米国との関係が傷つく。」テラダマナブ氏、その時点で菅首相の補佐官を務めた議員は語る。「我々は、アメリカとの信頼を失い、そして東京電力は私達の信頼を失った。


経験不足

もし菅首相が日本の既存の危機管理システムを使用していたら、より速く、より決断的に事を運べたのではないか。と言う支持者すらいる。

そのシステムは、1986年に作成され、その後の首相らにより強い力を求めた日本の指導者らによって強化された。ホワイトハウスでの危機管理をモデルにし、首相官邸の下にシチュエーションルームを設置までした。このシステムが首相の直接指揮下に様々な省庁から官僚を結集した。ササアツユキ、1980年代後半の内閣安全保障室長は言う。

批評家とサポーターらは同様に、このシステムをバイパスする菅首相の決定は、この大きな規模の危機を処理がほとんど経験のない、首相が信頼する助言者の小さなサークルに頼ることになり、より早く災害の重症度を把握することができなかった、と言う。顧問らは、さらにすべての情報源が利用可能であることすら知らなかった。

これには、緊急時環境線量情報予測システム、またはSPEEDIとして知られている放射線検出器の全国的なシステムが含まれている。テラダ氏と他の顧問は、彼らは事故から5日目の316日まで、そのシステムの存在を知らなかった、と言う。

もし、以前から知っていたなら、福島の原発からの放射性物質が北西吹き飛ばされる模様を、SPEEDIの早期予測を見ることができたはずであると、批評家で、菅首相の派閥議員であるカワウチヒロシ氏は言う。カワウチ氏は、北へ非難した原発周辺の住民の多くは、その地域では冬の間、風が南に吹くこと(北風)を根拠としていた。そのため避難者たちが放射性大気に直接巻き込まれた、と彼は言う。 まさに彼らは放出された放射線の危険にさらされた。

カワウチ氏は言う。彼が、SPEEDIを管理する文部科学省の当局者に、なぜ彼らがこの最初の重要な時に首相が情報を利用できるように手配をしなかったのかと尋ねたところ、彼らは、首相官邸は我々に情報を求めて来なかった、と答えた。

「もっと感情的なことだ。」マツモト氏は、菅首相の事を言う。「彼は、決して官僚を信用しない。」
これは菅首相の逸話の一つだが、1990年代半ばの厚生大臣の在任中、HIVに汚染された血液が自身の厚生省で使われたことを暴露して有名になったのだ。その血液で数百人の血友病患者がエイズで死亡した。菅首相は、官僚と製薬会社担当者が以前から長く、その汚染された血液のことを知っていたことが、わかったのだ。

菅首相にとっては、原子力施設は、経済産業省の官僚と従順な学者らが手助けする公共事業と政治的に癒着し、この種の共謀の最悪例を表している、とマツモト氏は語る。


命令無視

海水の件が、いい例である。

5月下旬の議会で証言の中で、菅首相は、海水の注入が「再臨界」、つまりストレージプールの床に横たわっている溶けた核燃料中でもしくは原子炉心で、核分裂が再開する現象を引き起こす可能性がある危険性を調べるように、顧問に依頼したと話した。マダラメハルキ氏、原子力安全委員会と総理府の原子力保安院の会長が、この「再臨界」の可能性はゼロではないと警告したので、側近らは心配を募らせた、と首相側近は言った。

312日、津波が発生した約28時間後、東京電力の幹部は、作業員に原子炉1号機に海水注入を開始するように命じていた。しかしその21分後、東京電力の幹部は、原発の管理者であるヨシダマサオ氏に、作業の中断を命じた。東京電力幹部は、首相に対する東京電力の窓口の説明に頼っていた。その窓口が、彼は命令に反していたようなことを報告した。

「まあ、それは雰囲気やムードだった。」ムトウサカエ氏、東京電力の副社長は、記者会見で説明した。

ササ氏、1980年代後半の内閣安全保障室長は、言った。「ムード?冗談ですか?気分で意思決定を?」しかし、ヨシダ氏は、その中断命令を無視することにした。海水注入は、原子炉を冷却するために残された唯一の方法で、それを止めるとより深刻な危機と放射性物質の放出を引き起こす可能性を意味する、と専門家らは言った。

ヨシダ氏は、発電所長として決断の権限を持っていた、マツモトジュンイチ氏、東京電力の高官は言った。確かに、国際原子力機関(IAEA)からのガイドラインには、タイムリーな対応が重要である場合、技術的な決定は、工場経営者に委ねるべきであることが書かれてあると、スン・キーヨン氏、最近の日本へのIAEA事実調査団に参加した原子力事故の専門家は言った。

彼は命令を無視していたことが5月に明らかになったが、ヨシダ氏は、原発でのテレビ記者らに対して「海水の注入を中断していたら、死を意味することになっただろう。」と自分自身のことを弁明した。
吉田氏は、56歳、友人によると、えらが張っていて、酒飲みで、真っ正直な人間だが、時には荒っぽい話をするのだそうだ。彼は若いころに剣道の実践者で、また、レイモンドチャンドラーから言葉を引用したり、イタリア料理を料理するのを趣味としている。

「教室では、先生が何かを適切に説明していない場合、自分が満足するまで説明を求めたりしていた。」幼馴染のババマサノリ氏は言った。

菅首相は彼の率直さをおぼえている。首相が津波の翌日に、軍のヘリコプターで原発に視察を行ったときに彼に会っている。彼らは、体制に逆らう意思を共有した。菅首相が薬害エイズ事件を暴露した時するときに持っていたようなものを。そして、同窓生のつながりが非常に重要なこの国で、彼らは同じ大学、東京工業大学を卒業していたことがわかった。

「1、2日後、菅首相は、吉田氏は東電の内部で信用できる唯一の人間だ、と言っていた。」菅首相の顧問であるマツモト氏は語った。

先週、東京電力は、ヨシダ氏の命令無視に対して、口頭注意のその軽い処罰を与えた。


不信と混乱

菅首相の批評家や支持者は同様に、東京電力に対する彼の不信は、十分な根拠があると言う。311日の災害の後、まだ日も浅い頃、東京電力は、首相官邸とは限られた情報だけを共有し、原発での危険性をもみ消そうとした、と彼らは言った。

東京電力は、この記事に関して上級幹部に対する取材を断った。東京電力幹部のマツモト氏は、同社はできるだけの情報を供給したと、記者会見で語った。彼は、東京電力を信用できないと言っている、菅首相についてのコメントを避けた。

菅政府は、東京電力にとって極めて重要な最初の3日間の原発危機の処理に関して、本質的にはまだ手を付けず、その代わりに家を失った数千数百人の救援活動に焦点を当てている、とテラダ氏や他の側近は語った。そして314日、原発の状況の重大さが、2度目の爆発で露見し、今回は3号機原子炉で現れ、そしてその夜の東京電力の清水社長からの「状況が余りにも危険で原発に残れないので工場から作業員を撤退することを許可してほしい。」という驚くような要求内容によって明らかになった。

菅首相はこれを聞き、激怒していたと、側近や顧問らは言った。原発を見捨てるということは、津波に襲われた4つの原子炉の制御を失うことを意味する。そして次の日、残りの2つの稼働中の原子炉、2号機と4号機で爆発が発生した。

「冗談じゃない。」側近によると、首相はそう叫んだそうだ。

彼らは、菅首相は315日の朝早くに緊急会議を招集し、原子炉を守るためにさらに何ができるかを顧問らに尋ねた。そして首相は、彼が2時間以内に東京電力を訪問する計画しているという警告を、かろうじて与えた。

午前5時半、菅首相は、東京電力の本社に入ってゆき、東京電力を監視するために、彼の最も信頼できる側近のひとり、ホソノゴウシ氏を張り付かせた。

菅首相は、5分間、即興の激励を与えた、と彼の補佐官テラダ氏は言った。

「発電所から撤退するとは、問題外である。」首相は彼らに伝えた。

顧問は、ホソノ氏の東京電力への配置は転機となり、原発での被害対策の努力を直接に指揮する首相を支援する体制となった。「初めて、私たちは、東京電力が議論していることを知り、彼らが何を知っていたのかを知った。」匿名を希望するある顧問は言う。

しかし、菅首相の支持者は、この動きが遅すぎたことを認めている。

「我々は、もっと速く動くべきだった。」アリトミマサノリ氏、東京工業大学の原子力技術者で首相顧問は言う。アリトミ氏は、東京電力の内部に駐留する細野氏が居ながらも、東京電力はまだ5月中旬まで、重要な情報を開示しなかったと言う。それは、最終確認を含めて、4つの稼働中の原子炉のうち3つがメルトダウンしていたことである。


同盟国との緊張

乏しい情報の流れとその場限りの意思決定は又、日本に駐留する約50,000人の軍事要員を有する米国と、日本との関係を緊張させた。

日本は、津波の被害者を助けるための米軍の申し入れを、迅速に受け入れたものの、最初の段階のワシントンでの認識では、展開する原子力災害の中で拒絶と誤解を引き起こし、「米国と日本の同盟の危機」を作られていたと、ナガシマアキヒサ、防衛次官は語った。

地震から48時間以内に、米国原子力規制委員会からの職員が東京に到着したが、彼らは情報を得ること、あるいは日本側との会合を手配することすらできなかった。一方、ワシントンは東京は発電所でのダメージを正確に伝えていないと確信したのは、通常北朝鮮の核実験を監視するために使用される航空機や衛星を使い、発電所の周りでアメリカ人が得ていた測定値に基づいていたからだ、と匿名を希望するアメリカ人士官が言った。

この士官によると、オバマ政権は、より多くの情報を共有するために「菅政府に頼る」を決定をした。316日に、アメリカの当局は、駐日大使ジョンV ·ルースを含めて、米国が福島原発から50マイル(80キロ)の地域から避難することをアメリカ市民に助言することを日本側に通知した。その範囲は、その後日本で設定された18マイル(30キロ)の自主的避難のゾーンよりもはるかに広いものであった。

アメリカ人らはまた、彼らの拠点での重要度の低い職員から自主的な避難を始め、より深刻な事態を示唆し、重要な軍事要員すら引き上げ始めた。東京がより多くの情報を供給していなかったからだ。このアメリカ人士官とテラダ氏を含めた補佐官らは言った。

ワシントンと、ますます不安になる最大限の努力をしていた日本の国民に対し誇示するため、菅首相は、原子炉に空中から水を放水するため、軍のヘリコプターを配備した、とテラダ氏や他の日本人顧問は言った。彼らは、ほとんど冷却効果は望めないだろうと分かっていた。317日、テレビで生放送されたそのヘリコプターは、空中から水を放った。しかし、強い風が吹き、ほとんどの水はコースを外れたのも明らかだった。

それでも、テラダ氏は、菅首相が彼の作戦が成功したと伝えるため、個人的にオバマ大統領に連絡を取った、と言う。その日遅くワシントンでは、オバマ氏は日本大使館を訪問し、哀悼の本に署名を行った。これが、首相官邸では、アメリカの大統領による承認のうなづきだと考えられた。

ナガシマ防衛次官は、より良く情報を知らせてほしいというアメリカの要求で、最終的に日本の対応が改善された、と言う。320日、情報を整理し、原子力事故への対応を議論することを目的として、アメリカと日本の政府関係者の間で毎日の会議開催案を菅首相に提示した。

その初会議は、翌日、首相官邸で開催された。ナガシマ氏は、会議は一時間半続き、通常は約50人が関与し、米国の原子力規制委員会、米国大使館や軍関係者だけでなく、政治的指導者、延べ5省庁、原子力機関、そして東京電力から成る大きな日本側の人間を含んでいた、と言う。その会議は、ホソノ氏が主導した。原発関連の対応では首相のキーパーソンになっていた。

ナガシマ氏は、さらに重要なのはアメリカ人らがこの会議に到着する前に何が起こったかである、というのは、日本人らは1時間前から集合し、情勢を議論し、何をアメリカ人たちにに伝えるかを練り上げていたのだ。と述べた。ナガシマ氏は、様々な省庁や東京電力、議題を設定した政治家とともにこのような会議が開かれるのは、この大災害以来初めてのことである、と言った。

「日本側は、皆を同じ部屋に招集できるのを必要とした。」ナガシマ氏は語る。「今回の米国の刺激は、日本が災害対策管理体制を改善するためのいい機会となった。」
(終)

Kantaro Suzuki 記事寄稿)

原発危機の最中、深刻な不信問題 (その5 最終)

By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER  
発信地:東京
紙面掲載日:2011612

(5 of 5)

同盟国との緊張

乏しい情報の流れとその場限りの意思決定は又、日本に駐留する約50,000人の軍事要員を有する米国と、日本との関係を緊張させた。

日本は、津波の被害者を助けるための米軍の申し入れを、迅速に受け入れたものの、最初の段階のワシントンでの認識では、展開する原子力災害の中で拒絶と誤解を引き起こし、「米国と日本の同盟の危機」を作られていたと、ナガシマアキヒサ、防衛次官は語った。

地震から48時間以内に、米国原子力規制委員会からの職員が東京に到着したが、彼らは情報を得ること、あるいは日本側との会合を手配することすらできなかった。一方、ワシントンは東京は発電所でのダメージを正確に伝えていないと確信したのは、通常北朝鮮の核実験を監視するために使用される航空機や衛星を使い、発電所の周りでアメリカ人が得ていた測定値に基づいていたからだ、と匿名を希望するアメリカ人士官が言った。

この士官によると、オバマ政権は、より多くの情報を共有するために「菅政府に頼る」を決定をした。316日に、アメリカの当局は、駐日大使ジョンV ·ルースを含めて、米国が福島原発から50マイル(80キロ)の地域から避難することをアメリカ市民に助言することを日本側に通知した。その範囲は、その後日本で設定された18マイル(30キロ)の自主的避難のゾーンよりもはるかに広いものであった。

アメリカ人らはまた、彼らの拠点での重要度の低い職員から自主的な避難を始め、より深刻な事態を示唆し、重要な軍事要員すら引き上げ始めた。東京がより多くの情報を供給していなかったからだ。このアメリカ人士官とテラダ氏を含めた補佐官らは言った。

ワシントンと、ますます不安になる最大限の努力をしていた日本の国民に対し誇示するため、菅首相は、原子炉に空中から水を放水するため、軍のヘリコプターを配備した、とテラダ氏や他の日本人顧問は言った。彼らは、ほとんど冷却効果は望めないだろうと分かっていた。317日、テレビで生放送されたそのヘリコプターは、空中から水を放った。しかし、強い風が吹き、ほとんどの水はコースを外れたのも明らかだった。

それでも、テラダ氏は、菅首相が彼の作戦が成功したと伝えるため、個人的にオバマ大統領に連絡を取った、と言う。その日遅くワシントンでは、オバマ氏は日本大使館を訪問し、哀悼の本に署名を行った。これが、首相官邸では、アメリカの大統領による承認のうなづきだと考えられた。

ナガシマ防衛次官は、より良く情報を知らせてほしいというアメリカの要求で、最終的に日本の対応が改善された、と言う。320日、情報を整理し、原子力事故への対応を議論することを目的として、アメリカと日本の政府関係者の間で毎日の会議開催案を菅首相に提示した。

その初会議は、翌日、首相官邸で開催された。ナガシマ氏は、会議は一時間半続き、通常は約50人が関与し、米国の原子力規制委員会、米国大使館や軍関係者だけでなく、政治的指導者、延べ5省庁、原子力機関、そして東京電力から成る大きな日本側の人間を含んでいた、と言う。その会議は、ホソノ氏が主導した。原発関連の対応では首相のキーパーソンになっていた。

ナガシマ氏は、さらに重要なのはアメリカ人らがこの会議に到着する前に何が起こったかである、というのは、日本人らは1時間前から集合し、情勢を議論し、何をアメリカ人たちにに伝えるかを練り上げていたのだ。と述べた。ナガシマ氏は、様々な省庁や東京電力、議題を設定した政治家とともにこのような会議が開かれるのは、この大災害以来初めてのことである、と言った。

「日本側は、皆を同じ部屋に招集できるのを必要とした。」ナガシマ氏は語る。「今回の米国の刺激は、日本が災害対策管理体制を改善するためのいい機会となった。」
(終)

Kantaro Suzuki 記事寄稿)

原発危機の最中、深刻な不信問題 (その4)

By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER  
発信地:東京
紙面掲載日:2011612

(4 of 5)

不信と混乱

菅首相の批評家や支持者は同様に、東京電力に対する彼の不信は、十分な根拠があると言う。311日の災害の後、まだ日も浅い頃、東京電力は、首相官邸とは限られた情報だけを共有し、原発での危険性をもみ消そうとした、と彼らは言った。

東京電力は、この記事に関して上級幹部に対する取材を断った。東京電力幹部のマツモト氏は、同社はできるだけの情報を供給したと、記者会見で語った。彼は、東京電力を信用できないと言っている、菅首相についてのコメントを避けた。

菅政府は、東京電力にとって極めて重要な最初の3日間の原発危機の処理に関して、本質的にはまだ手を付けず、その代わりに家を失った数千数百人の救援活動に焦点を当てている、とテラダ氏や他の側近は語った。そして314日、原発の状況の重大さが、2度目の爆発で露見し、今回は3号機原子炉で現れ、そしてその夜の東京電力の清水社長からの「状況が余りにも危険で原発に残れないので工場から作業員を撤退することを許可してほしい。」という驚くような要求内容によって明らかになった。

菅首相はこれを聞き、激怒していたと、側近や顧問らは言った。原発を見捨てるということは、津波に襲われた4つの原子炉の制御を失うことを意味する。そして次の日、残りの2つの稼働中の原子炉、2号機と4号機で爆発が発生した。

「冗談じゃない。」側近によると、首相はそう叫んだそうだ。

彼らは、菅首相は315日の朝早くに緊急会議を招集し、原子炉を守るためにさらに何ができるかを顧問らに尋ねた。そして首相は、彼が2時間以内に東京電力を訪問する計画しているという警告を、かろうじて与えた。

午前5時半、菅首相は、東京電力の本社に入ってゆき、東京電力を監視するために、彼の最も信頼できる側近のひとり、ホソノゴウシ氏を張り付かせた。

菅首相は、5分間、即興の激励を与えた、と彼の補佐官テラダ氏は言った。

「発電所から撤退するとは、問題外である。」首相は彼らに伝えた。

顧問は、ホソノ氏の東京電力への配置は転機となり、原発での被害対策の努力を直接に指揮する首相を支援する体制となった。「初めて、私たちは、東京電力が議論していることを知り、彼らが何を知っていたのかを知った。」匿名を希望するある顧問は言う。

しかし、菅首相の支持者は、この動きが遅すぎたことを認めている。

「我々は、もっと速く動くべきだった。」アリトミマサノリ氏、東京工業大学の原子力技術者で首相顧問は言う。アリトミ氏は、東京電力の内部に駐留する細野氏が居ながらも、東京電力はまだ5月中旬まで、重要な情報を開示しなかったと言う。それは、最終確認を含めて、4つの稼働中の原子炉のうち3つがメルトダウンしていたことである。
(続く)

原発危機の最中、深刻な不信問題 (その3)

By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER  
発信地:東京
紙面掲載日:2011612

(3 of 5)

命令無視

海水の件が、いい例である。

5月下旬の議会で証言の中で、菅首相は、海水の注入が「再臨界」、つまりストレージプールの床に横たわっている溶けた核燃料中でもしくは原子炉心で、核分裂が再開する現象を引き起こす可能性がある危険性を調べるように、顧問に依頼したと話した。マダラメハルキ氏、原子力安全委員会と総理府の原子力保安院の会長が、この「再臨界」の可能性はゼロではないと警告したので、心配を募らせた、と首相側近は言った。

312日、津波が発生した約28時間後、東京電力の幹部は、作業員に原子炉1号機に海水注入を開始するように命じていた。しかしその21分後、東京電力の幹部は、原発の管理者であるヨシダマサオ氏に、作業の中断を命じた。東京電力幹部は、首相に対する東京電力の窓口の説明に頼っていた。その窓口が、彼が命令に反していたようなことを報告した。

「まあ、それは雰囲気やムードだった。」ムトウサカエ氏、東京電力の副社長は、記者会見で説明した。

ササ氏、1980年代後半の内閣安全保障室長は、言った。「ムード?冗談ですか?気分で意思決定を?」しかし、ヨシダ氏は、その中断命令を無視することにした。海水注入は、原子炉を冷却するために残された唯一の方法で、それを止めるとより深刻な危機と放射性物質の放出を引き起こす可能性を意味する、と専門家らは言った。

ヨシダ氏は、発電所長として決断の権限を持っていた、マツモトジュンイチ氏、東京電力の高官は言った。確かに、国際原子力機関(IAEA)からのガイドラインには、タイムリーな対応が重要である場合、技術的な決定は、工場経営者に委ねるべきであることが書かれてあると、スン・キーヨン氏、最近の日本へのIAEA事実調査団に参加した原子力事故の専門家は言った。

彼は命令を無視していたことが5月に明らかになったが、ヨシダ氏は、原発でのテレビ記者らに対して「海水の注入を中断していたら、死を意味することになっただろう。」と自分自身のことを弁明した。
ヨシダ氏は、56歳、友人によると、えらが張っていて、酒飲みで、真っ正直な人間だが、時には荒っぽい話をするのだそうだ。彼は若いころに剣道の実践者で、また、レイモンドチャンドラーから言葉を引用したり、イタリア料理を料理するのを趣味としている。

「教室では、先生が何かを適切に説明していない場合、自分が満足するまで説明を求めたりしていた。」幼馴染のババマサノリ氏は言った。

菅首相は彼の率直さをおぼえている。首相が津波の翌日に、軍のヘリコプターで原発に視察を行ったときに彼に会っている。彼らは、体制に逆らう意思を共有した。菅首相が薬害エイズ事件を暴露した時するときに持っていたようなものを。そして、同窓生のつながりが非常に重要なこの国で、彼らは同じ大学、東京工業大学を卒業していたことがわかった。

「翌日、菅首相は、吉田氏は東電の内部で信用できる唯一の人間だ、と言っていた。」菅首相の顧問であるマツモト氏は語った。

先週、東京電力は、ヨシダ氏の命令無視に対して、口頭注意の軽い処罰を与えた。
(続く)

2011年6月18日土曜日

原発危機の最中、深刻な不信問題 (その2)

By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER  
発信地:東京
紙面掲載日:2011612

(2 of 5)

経験不足

もし菅首相が日本の既存の危機管理システムを使用していたら、より速く、より決断的に事を運べたのではないか。と言う支持者すらいる。

そのシステムは、1986年に作成され、その後の首相らのさらに強い力を求めた日本の指導者らによって強化された。ホワイトハウスでの危機管理をモデルにし、首相官邸の下にシチュエーションルームを設置までした。このシステムが首相の直接指揮下に様々な省庁から官僚を結集した。ササアツユキ氏、1980年代後半の内閣安全保障室長は言う。

批評家とサポーターらは同様に、このシステムをバイパスする菅首相の決定は、この大きな規模の危機を処理がほとんど経験のない、首相が信頼する助言者の小さなサークルに頼ることになり、より早く災害の重症度を把握することができなかった、と言う。顧問らは、さらにすべての情報源が利用可能であることすら知らなかった。

これには、緊急時環境線量情報予測システム、またはSPEEDIとして知られている放射線検出器の全国的なシステムが含まれている。テラダ氏と他の顧問は、彼らは事故から5日目の316日まで、そのシステムの存在を知らなかった、と言う。

もし、以前から知っていたなら、福島の原発からの放射性物質が北西に吹き飛ばされる模様を、SPEEDIの早期予測を見ることができたはずであると、批評家で、菅首相の派閥議員であるカワウチヒロシ氏は言う。カワウチ氏は、北へ非難した原発周辺の住民の多くは、その地域では冬の間、風が南に吹くこと(北風)を根拠としていた。そのため避難者たちが放射性大気に直接巻き込まれた、と彼は言う。 まさに彼らは放出された放射線の危険にさらされた。

カワウチ氏は言う。彼が、SPEEDIを管理する文部科学省の当局者に、なぜ彼らがこの最初の重要な時に首相が情報を利用できるように手配をしなかったのかと尋ねたところ、彼らは、首相官邸は我々に情報を求めて来なかった、と答えた。

「もっと感情的なことだ。」マツモト氏は、菅首相の事を言う。「彼は、決して官僚を信用しない。」
これは菅首相の逸話の一つだが、1990年代半ばの厚生大臣の在任中、HIVに汚染された血液が自身の厚生省で使われたことを暴露して有名になったのだ。その血液で数百人の血友病患者がエイズで死亡した。菅首相は、官僚と製薬会社担当者が以前から長く、その汚染された血液のことを知っていたことが、わかったのだ。

菅首相にとっては、原子力施設は、経済産業省の官僚と従順な学者らが手助けする公共事業と政治的に癒着し、この種の共謀の最悪例を表している、とマツモト氏は語る。
(続く)

原発危機の最中、深刻な不信問題 (その1)

By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER  
発信地:東京
紙面掲載日:2011612



(1 of 5)

312日の夕方、福島第一原子力発電所最古の原子炉は、水素爆発を起こし、完全なメルトダウンの危険にさらされた。菅首相は、原子炉を冷却するために海水を注入する危険性を比較検討するよう、側近らに依頼した。

自身のキャリアを日本の産業界と官僚の間の癒着の疑いに基づいて構築してきた菅首相は、この重要な瞬間には、ほぼ暗闇の中で行動していたことが明らかになった。彼は主要原子力監査員からまぎらわしい危険性分析を受け取っていた。その監査員は熱心なプロの原子力学術員であるが、首相は信用していないと首相側近は言った。その監査員はまた、原発を運営する会社のもくろみに慎重で、問題を隠蔽しようとした経緯からも考えられることである。

菅首相は、すでに海水を使用し始めていたことを知らなかった。首相官邸の雰囲気の推測から、東京電力は発電所管理者に停止を命じた。
しかし、管理者は日本企業としては考えられないことを行った。彼は、指示に従わず密かに海水を使用し続けたのだ。専門家は言う。より深刻なメルトダウン危機をほぼ確実に防止したであろう決定により、彼は予想もしない英雄となった。

複雑なドラマが、チェルノブイリ以来の最悪の日本の原子力災害に関する処理の背後にある亀裂らを露出させている。災害は、最終的に原発のの6つの原子炉のうち、4つで爆発が起きた。菅首相側近、政府官僚、及び会社当局の間で、相互に疑わしい関係が、滑らかな意思決定を妨げたのである。

ドラマの中心は、よそ者扱いの首相で、彼は迅速な行動の必要性を感じていた。しかし、首相は、原発の作業員、従順な官僚、そして思いやりのある政治家の間の強力な連携システムに根本的な不信感を持っていたため、多くの情報をふまえた上で意志決定をするために利用されるべき情報源が、首相から奪われたのである。

かつては草の根の活動家であった、菅首相が危機管理を行うのに苦労していたのは、この未曾有の原発危機に対応するために、彼の前任者らによって確立されたまさしくその構造、連携システムに頼ることができないと感じたからである。
そのため、彼は最初、原子力発電所についてほとんど知らない、かろうじて工場のオペレータや原子力規制当局と情報を交換できる、親しく圧倒的な少数の顧問たちだけを頼っていた。津波による人道的災害を管理するために苦労しながら、菅首相は、原子力危機を悪化させる政府の対応を即興し、個人的に原発へ介入したり東京電力に任せたりで、対応を迷っているかのようであった。

「遅れがあった。まず第一に、我々は東京電力から正確な情報を得ていなかった。」マツモトケンイチ顧問は語る。しかしマツモト氏は、東京電力と官僚に対する首相の不信感が、全体的な対応に「影響した」と付け加える。

初期の混乱で、米国政府が大変に心配したため、断固たる行動をしっかり取ることや情報を共有することで協力するようにと圧力がかかり、日本をますます煽ることとなった。さらに事態を悪くしたのは、初期段階での米国の援助を受け入れるの嫌がったことだ。そのとき、アメリカはポンプ車、無人ロボットやアメリカの原子力危機の専門家のアドバイスを提供しようとした。

「我々が負のスパイラルに陥っていることを知り、それで米国との関係が傷つく。」テラダマナブ氏、その時点で菅首相の補佐官を務めた議員は語る。「我々は、アメリカとの信頼を失い、そして東京電力は私達の信頼を失った。」
(続く)

2011年6月14日火曜日

611 原発抗議に挑戦する日本

By HIROKO TABUCHI 
発信地:東京
紙面掲載日:2011年6月12日



ドラムを叩き、花を振りながら、この土曜日に、東京と他の主要都市で、原子力利用に対する抗議者たちが結集した。破壊的な津波が原子力災害を引き起こしてから3ヶ月後のことだ。

福島県原子力発電所事故の政府の対応に対する怒りは、原発の被害や放射性物質の放出が、以前に考えられていたよりもはるかに悪化したことが発覚したこの数週間で、噴出している。子供の健康を心配する母親は、破壊された生活に対する怒る農民や漁民と同様に、菅首相の政府を特に批判視している。

この災害で、日本が歴史的に破壊的な地震や原子力への深い不信を持つ国にもかかわらず、原子力発電への大きく依存する現在の日本についての国民的な議論が高まっている。おそらく彼の動きの中で、唯一大衆の支持を獲得したのは、菅首相が、津波の防御を強化できるようになるまで、日本の中央部に位置する別の原子力発電所(浜岡)の停止を命じたことだ。しかし、最近の政治活動は、行き詰まる国会において、国民の幻滅は募るばかりである。

「我々は今、現在の原子力発電への依存の危険性を知り、変革を行う時だ。」マツモトハジメさんは話す。彼は、今回の集会の主催者の一人で、主催者によると、東京の中心部(新宿)の広場へ集まった人数は最終的に約20,000人にも昇った。

「そして、私は日本が変革できると信じている。」彼は叫ぶ。群衆は大声を上げ、人々はこぶしを振り上げた。

ここ東京そして、他の多くの都市で開催されたイベント集会支持者たちは、このデモが注目すべきなのは、その規模ではなく、とても従順と秩序を大切にするこの日本ですべてが起こったからだと言う。

「日本人は、少なくとも最近は、このような大きなデモを行っていない。」サトウジュンイチさんは話す。彼は環境保護団体グリーンピースジャパンのプログラムディレクターで、彼が主催してきた集会は本当に人数の少ないものであったと、話す。「彼らは自分たち自身に聞こえるように、第一歩を踏み出した。」

群衆は、初めてデモに参加する人がほとんどだった。

「私は子供のためにここにいる。」イシイアキさんは言う。3歳の娘を連れていた。「我々の昔の生活を取り戻したい。ただ、水が安全で、空気がきれいな生活を。」彼女の娘が身につけていた掲示には、「もう一度、外で遊ばせて下さい。」と書かれていた。

フジモトヒロマサさんは、米や野菜の農家で、彼も初めて抗議運動に参加したと話す。「私は、土壌や水が心配だという人々に、ただ伝えたい。」と彼は言う。「私は今、片手にガイガーカウンターを持ち、片手に農具を持って作業をしている。」

「これはばかげている。」彼は言う。

集会は、概して整然と始まった。 「すべてのマナーを守りましょう。」と 主催者はデモ隊が整然と列に並んだ開始時に言った。ただ群衆は、結果的には乱暴な振る舞いとなった。

デモ隊は都内でいくつかのデモ行進を行った後、ある広場(新宿)に集まった時に、警察とのの対立がいくつかあった。名前を言うのを拒否した警官は、デモ隊が広場に集まるための許可が与えられていなかったことを、かたずをのんで説明した。

「すぐに集会を分散させる。」警察官が拡声器を介して叫ぶ。

「黙れ。消え失せろ。」若い男が叫び返す。

しかしながら、午後9時ごろ、警察官は強制的に群衆を解散させようと、介入した。小競り合いは見られたが、深刻な物はなかった。

それでも、主催者のマツモトサンは大喜びでだった。「誰が、こんなに多くの人々が参加すると考えただろう。」彼は言う。「日本は、何か新しいことが始まると思う。」

しかし、通行人たちは関心が低い人も少なくない。

「彼らに、何が本当にできるの。」イシイアイリさんは言う。21歳の店員で、ボーイフレンドと一緒に集会を見ようと立ち止まっていた。「おもしろそう。でも、これで何かが変わると思うなら、単純だわ。」