2011年8月29日月曜日

最初の日系アメリカ人追放を偲ぶ記念碑

The New York Times (オリジナル原文はこちら) (スライドショーはこちら)
By KATHARINE Q. SEELYE
201185
発信地:ベインブリッジ島、ワシントン州
フランク・キタモトさんは、まだ2歳だった。日本が第二次世界大戦で真珠湾を爆撃し、彼と彼の家族、そして270人以上日系人が、強制的にこの森林に覆われた島から退去させられ、収容所に送られた時のことである。キタモトさんは、現在72歳。彼は、若い頃を、自分のアイデンティティについて深刻に悩みながら過ごした。日本の伝統を恥じ、彼が白人だったらと願っていた。他の若い男たちは、日本人の特徴を隠すために整形手術を受けるようにまでエスカレートした。自殺した者もいる。

「私は、ここが平等と自由の土地で、差別などが起こるはずがないと、子供の頃には思っていた。」キタモトさんは、その後、歯医者となり、先日その事務所で話を伺った。その事務所には、壁一面が当時からの写真で覆われていた。「だから、私に何か問題があったからだと思った。私は悪い人間だった。」

土曜日に、キタモトさんは 、元囚人、その家族、ベインブリッジの住民や観光客を含めた何百人もの人たちと一緒に、 当時のことを思い出すだろう。アメリカ市民たちが適正な手続きなしに、米国政府によってその民族性を理由に自分の家から追放され、監禁された時のことを。小さな入江の港では、湿地と古い杉林の中で、彼らは、政府が後になって認めたことが、アメリカの歴史の中で最も恥ずべきエピソードの一つであったことを記す記念碑を捧げる。その碑の目的が青銅の文字で(日本語で)刻まれている。「二度とないように、それが再び起こらないように。」

これが最後かもしれないと、集まる人たちがある。ハヤシダフミコさん、キタモトさんの叔母であり、兵士によって検挙された時には彼女は31歳で、現在は99歳か100歳であるが、実は記録がはっきりしていない。ベインブリッジ出身で生き延びた最高齢の囚人である。

シアトルポスト、インテリジェンサーによる彼女の有名な写真は、抑留を象徴するものとなっている。そのカメラは、1942330日、生後13ヶ月の娘のナタリーを抱いている彼女を捉えている。不似合いなスタイリッシュな帽子が彼女の頭の上にかぶせられ、識別タグは、ふたりのコートから吊り下げられている。まるで荷物であるかのように彼らは札を付けられて、それらは出荷の準備がなされた。

ベインブリッジは、退去させられた日系アメリカ人の一番最初のグループが住んでいた場所であり、戦後の帰還の際、歓迎されて迎えられた数少ないコミュニティの一つであった。島から出された277人のうち、150人が戻ることができた。そして、約90人は、今日まだ生存し、20人はまだここに住んでいる。

真珠湾攻撃を受けた過剰反応の中で、政府の多くの高官たちは、日系アメリカ人たちを、米国に対する潜在的な工作員や共同研究者として見ていた。1942年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、軍事施設の近くに住む日系アメリカ人を退去させる行政命令を発した。この碑は、ベインブリッジ島日系アメリカ人排除記念碑と呼ばれている。その碑には島の277人の日系アメリカ人すべての名前が刻まれ、その3分の2はアメリカ市民であったが、それから3年の間、島から退去させされた。

新鮮な杉の香りが、蛇行する壁面から、漂っている。この記念碑は、小さなフェリー乗り場近くの8エーカー(32)を占めている。ここは、固定された銃剣とライフル銃を身につけた米軍兵士が当惑していた島の日系アメリカ人たちを集めた場所である。退去の準備にはわずか6日間しか与えられず、彼らは着の身着のままでどこへ行くのかも知らされてはいなかった。

兵士たちは、橋を渡り、シアトル行きフェリーへ彼らを連れて行き、シアトルから3日間、列車に乗った。彼らが町を通り抜ける間、列車の窓は暗く遮られていた。そして、列車から乗り継いだバスが辿り着いたのは、カリフォルニアの砂漠にあるマンザナール強制収容所であった。約1年後、キタモトさんの家族を含めた多くの人々は、シアトル地域からの他の囚人たちが収容されたアイダホ州南中央部のミニドカ強制収容所への移転を求めた。彼らは戦争の間、そこで過ごした。

キタモトさんの姉妹の一人である、当時7歳で、現在76歳であるリリー・キタモト・コダマさんは、収容所でのものすごい風と砂嵐を思い出す。しかし振り返ると、政府が「これを成し遂げることができたかもしれない」ということにとても驚いた。」と彼女は話す。太陽が降り注ぐベインブリッジ島の歴史博物館の木製のベランダに座り、彼女はそこでボランティアをしている。

戦争が終わっても偏見は消えなかった、と彼女は言う。彼女は、シアトルにある店舗の販売員たちが彼女の家族に対して用を聞くことを拒否したので、シアーズローバックのカタログを使ってすべてを注文しなければならなかったことを思い出す。彼女は、夕食でマッシュポテトを食べたと人々に言うことで、「私がアメリカ人であることを証明しようとした」が、実際は、彼女はビーチへ行って、海藻を集めていたと言う。

「今では」彼女は笑いながら言う、「シアトルからのフェリーで寿司を販売している。」

全体では、政府は、アメリカ西部のほぼ全ての日系アメリカ人12万人を、主要10収容所と多くの小規模の拘置所に投獄した。戦後数十年経ってから、救済運動の一環として、それまでは彼らの過去に対して注意を喚起したくなかった生存者たちが、その経験について話し始めた。

その動きは、1988年に頂点に達し、ロナルドレーガン大統領は、国家として謝罪し、最終的にそれぞれの遺族に対して、手紙と2万ドルが送られた。(議会は、返還のために3,700万ドル充当した。1983年のドル計算では、損失した総所得と総財産が20億ドル近いと推定されたものの。)

それ以来、様々な口述での歴史プロジェクト、セミナー、モニュメントは、主にアメリカ西部で広がっている。新しい案内センターが、ワイオミング州のかつてのハートマウンテン収容所だった場所で今月後半にオープンすることになっている。

ここベインブリッジでは、追悼碑に加えて、個人的グループやパブリックグループが10年以上に渡り計画されているものもある。歴史博物館では、アンセル・アダムスによるマンザナールでの受刑者の写真のコレクションが展示されている。博物館では、1883年からのこの島での日系アメリカ人の歴史をたどる展示もされている。

ベインブリッジ島が独特なのは、追放される人々の第一陣の乗船ポイントだったということである。政府は、テストケースとして、島の少ない人口を利用し、大人数の再配置を行うことができるかどうかを確認したのである。ベインブリッジ島での検証は、アメリカ西海岸南北における強制収容のモデルとなった。

ベインブリッジはまた、日系アメリカ人が島の組織の一部として何十年も住んでおり、珍しい場所でもあった。彼らは最初、1880年代にやって来た。イタリア人とハワイ人達と一緒に、木材の工場で働き、そしてイチゴ畑を耕作した。子どもたちは一緒に学校に行った。

島民の中には、ウォルト・ウッドワーズと彼の妻のミリーがいて、地元紙、ベインブリッジレビューを発行していた白人のカップルであった。彼らは、民族排除に反対する発言をする編集記事を載せていた。収容期間中、ウッドワーズは、彼らの投獄特派員からのニュースを伝え、結婚、出生と死亡情報に加え、キャンプの状況を詳述した。その新聞は、戦後になって、国民の認識を受けるようになった。そして1994年、デビッド・グターソンの本「ヒマラヤ杉に降る雪は」では、ウッドワーズに触発された登場人物を配し、一般市民に彼らの物語をもたらした。ベインブリッジは、囚人たちの帰還を歓迎し、彼らの生活の立て直しに尽くした数少ないコミュニティの一つであった。

キタモトさんは、それは追放された人々と同様、その帰還を受け止めてくれた人々に対し光栄に思いながら、記念碑を眺めた、と言った。

自分が寛大にならずして、自分の人生とともに歩むことはできなかったと分かるようになったと、彼は話した。しかし、彼は、9/11のテロ攻撃以降のイスラム教徒に対する差別により、彼の不安が再燃している、と述べた。

「イスラム教徒に起こっていることは、私たちに起こったことと非常に似ている。」と彼は言う。「我々が、起こる出来事に対する我々の反応を不安がらせないようにするまで、それは続くであろう。」

彼の叔母、ハヤシダ夫人は、小柄で活動的だが、今でははほとんど憤りを抱いていないようだ。「我々は敵のように見えた。」彼女は説明する。今住んでいるシアトルで、くつろいだリビングルームに座りながら。「そして、私は、頼るべき政府を信頼した。少なくとも家族はいつも一緒であった。私は困惑していたが、私はルールに従った。」

彼女の娘、ナタリー・ハヤシダ・オングさんは、70歳で、テキサス州に住んでいる。救済の動きが始まって以来、有名な写真は彼女の母親の経歴を象徴するものになっていた、と言った。「彼女は、誰でもなく、しかし、彼女は皆を表現していた。」オングさんは言う。

ジョン・ポール・ジョーンズ、ここに住み記念碑を設計した有名な建築家である。彼は、順調に流れていた生活が突然の追放により妨害された生活の感情を捉えようとし、その衝撃を急激な断層によって表していると、話した。

「私は、アメリカインディアンであり、母国から遠く離れている心情を理解する。」ジョーンズさんは言う。「この記念碑は、彼らが失ったものために称えるための場所だと考えている。」

(終)

2011年8月24日水曜日

立ち入り禁止となる日本の原子炉近くの広域


The New York Times オリジナル原文はこちら
2011821
By MARTIN FACKLER 
発信地:東京

政府の調査で安全なレベルをはるかに超える放射能汚染が発見されたため、おそらく数十年の間、被災した福島第一原子力発電所の周りの広い地域では居住できないという宣言をすることが、いくつかの主要メディアにより明らかになった。

近日中に予想される政府から公式発表は、3月の事故から、強制的に原発周辺地域の長期的非居住化を進めることへの初めての公式の認識であり、科学者らや一部の関係者らが数ヶ月間にわたり警告してきた事態である。議員たちが週末に話していて、主要新聞が月曜日に報道していたのは、菅首相が原発のある福島県を訪問することを予定しており、土曜日の出来るだけ早くに住民に直接ニュースを伝えようとした。今回影響を受ける区域は、原発から12マイル(20km)以内すべてで、事故後に直ちに避難した地域である。

政府は、期限なく自宅に戻ることが許されないことを、住民たちを伝えることが予想される。また、それにより補償計画の策定が開始される。とりわけ、今住めない土地を借りることが問題である。政府がこの居住制限がどれ位長く続くのかに言及するのかどうかは不明だが、報道ではそれが何十年に渡る可能性が示されている。それは、1986年の事故後のウクライナのチェルノブイリ発電所周辺地域と同様の事態となっている。

福島の事故以来、避難問題は、政府にとって敏感な話題となっている。その政府は、公衆衛生への潜在的な危険性にもかかわらず、災害の程度を認めるのが遅いこと、影響を受けた地域の大きさを狭めようとすることで批判されている。今まで、東京では、来年早々には原発周辺のほとんどの地域での現在の避難命令を解除されるだろうと言われていた。来年早々というのは、作業員が損傷を受けた福島第一の原子炉を安定化することが予想される時期だからである。

政府は、科学教育省の調査の結果、明らかにその計画の変更を余儀なくされた。その調査結果は、週末に発表され、原発周辺の12マイル(20km)避難ゾーン内では、予想よりも高い放射線レベルを示した。汚染が最も深刻な場所は、原発から約2マイル(3.2km)南西に位置する大隈町にあり、年間、放射線の508.1ミリシーベルトにさらされることが予想され、今まで政府が安全と考えていた年間20ミリシーベルトのレベルをはるかに超えている。

調査では、上記の放射線の安全なレベルは、原発から12マイル(20km)以内の36地点で確認された。実際に原発が安定した後でも、どれぐらいの住民が自宅に戻れるようになるのか、という疑問も出てくる。

311日、マグニチュード9.0の地震とそびえ立つ津波によって損傷した原発周辺地域から避難したのは、約8万人の住民であった。それらの住民の多くは、現在、仮設住宅や仮設避難所に住んでおり、つかの間の自宅は、防護服を着用義務による厳重な監視下での訪問で許されるだけである。

(終)

2011年8月8日月曜日

原発反対に参加する原爆生存者たち


The New York Times (英語原文
By MARTIN FACKLER
201186
発信地:長崎 日本

1945年、ヒロセマサヒトさんは、この街全体を焼却し、彼の叔母を鼻や歯茎からの出血や激しい痛みを伴いながらゆっくりと死に追いやった、原爆の白いキノコ雲が上昇するのを見た。それでも、ここそして広島の攻撃の生存者たちと同様、彼は静かに、日本の戦後の原子力に対する信奉を受け入れた。原子力が安全で、且つ、国家の経済的台頭のために必要だったという政府の保証を信じてのことである。

ただ、それは、日本の東北地方の福島第一原子力発電所における今年の災害で、生存者たちが昔の悪夢に再び直面するまでのことだった。何千人もの一般市民が、放射線にさらされた。核技術の致命的な障害で仰天し、最近のタウンホール形式の会議で政府と電力業界が原子力推進派を植えつけたという暴露に激怒した、高齢者の被爆者たちが、数字においては少なくなっているものの、原子力発電に対する反対運動を初めて行っている。

そして今、広島と長崎の両都市が第二次世界大戦の終わりのアメリカの原爆投下から66年を迎えるにあたり、被爆生存者たちは、この独特の道徳的地位を使用できることを願っている。核爆弾の唯一の犠牲者として、人類の悲劇が発生しやすい原子を活用するための努力という考え方から、日本と世界の両方を引き離すために。

「放射線の危険性についての警告を、世界に対し、繰り返し与えることが、日本の運命なのでしょうか?」81歳のヒロセさんは言う。アメリカの原爆が長崎のほとんどを抹消し、瞬時に約40,000人を殺害した時、彼は中学生であった。「私たちが、もっと早くに原子力に対して発言する勇気を持っていればよかったと思う。」

しかし、ここ長崎ですら、口外することは、簡単ではなかった。原子力は、日本の戦後の復興、つまり荒廃からそして経済発展に向かう強行軍に没頭していたコンセンサス主導型の国における困難な状況に挑むために、必要であったのであろう。彼らの姿勢はまた、過去の過ちを繰り返さないように向かわせたある国において、いくつかの歴史的意味を成していた。資源の乏しい日本にとって、1941年に戦争を始めた理由の一つは、新しいエネルギー源を確保することであり、その時は石油であり、アメリカの経済封鎖の後であった。

現在でも、エネルギー安全保障のために国家が共有するビジョンに忠実な圧力は強い。

広島が原爆の記念式典を行った際、この原爆では少なくとも7万人が死亡したが、その土曜日に、広島市長は、原子力発電の終焉を求めるには至らなかったが、原発に対する意見が分かれていることに言及した。

「人類が核エネルギーとは共存できないという信念と共に完全に原子力発電を放棄したいと言う意見があり、一方では、原子力の規制強化とより多くの再生可能エネルギーを要求する意見がある。」マツイカズミ市長は言った。

日本の報道によると、この市長は、若すぎて原爆を目撃しておらず、福島の事故をきっかけに、より強い文面を作ると考えられていたが、事業グループによる反対に直面し引っ込めたという。

そのような不本意な発言であったので、原爆生存者による強い姿勢は、さらに印象的なものになった。先月、被団協が、民間の原子力発電をなくすことを、日本で初めて訴えた。5万人の生存する被爆者団体である。来年の行動計画では、この団体は、新しい原子力発電所の建設を停止と、代替エネルギーが発見され次第、日本の現在の54原子炉の段階的廃止を呼びかけた。

団体は、1956年の設立以来、核兵器廃絶の声を提唱してきた。しかし、その声は、現在の原発問題までは聞かれなかった。日本は、ウクライナのチェルノブイリで数十年前の事故や、多くの西欧諸国に対し原子力事業拡大計画を棚上げにさせたペン​​シルベニア州のスリーマイル島での事故の後ですら、続行し続けた。

「官僚、業界、そしてメディアたちは、原子力の危険性に対して、我々の目をふさぐことができた。」ヤマダヒロタニさん、被団協長崎支部の事務局長は語った。「我々が、彼らに私たちをだますことを許した。原爆の犠牲者となったこの国で。」

ヒロセさんは、長崎の原爆で彼の叔母を失った。彼は、福島での災害の後、原子力発電に関する団体の変化において主導的な役割を果たしてきた。

彼は、福島原発からの放射線にさらされる人々を襲う恐怖を深く理解していたので、左右された部分もあった。彼の弟は、原爆の20年後に死亡した。30代で、6種類の癌に苦しんでのことである。

皆、まだ生きていて、「彼らは、放射線の恐怖の生きている証言者である。」と彼は言った。

ヤマダさんは、日本の原子炉が世界でも最高で絶対に​​安全であることを、政府、産業界、そして報道機関により提唱され、それを信じたために、多くの被爆者は、他の日本人のように原子力発電を受け入れた、と述べた。この「安全神話」により、今では頻繁にそう呼ぶようになったが、日本の当局は、スリーマイル島やチェルノブイリに対する懸念を取り払うことができ、それらの事故は乏しい技術や無能な工場労働者によって引き起こされた、と伝えた。

被爆生存者には、その安全神話から解放されるためには福島で起きた災害の大きさが必要だった、と残念ながら認める人もいる。

「皆は、原子力発電は、原爆とは違うと確信していた。」ヤマダさんは言う。長崎に原爆が投下された時、彼は10代であった。「福島の事故で、どちらもそう違いはないことがわかった。」
(終)

2011年8月7日日曜日

世界一のサービスを受けられるのは何処?

By NATE SILVER
201185

ガイドブックには、日本では決してチップを置かないようにと書いてある。しかし、私とパートナーは、昨年12月、日本へ旅した。90ポンド(40kg)位のベルボーイが私たちの満タンのスーツケースを私たちの部屋に運ぶことを申し出た時、我々は数百円のチップは必要だろうと思った。彼女は、丁寧に、私たちのお金を拒否した。その次の週には、霧雨が降り始めたので傘を私達に用意してくれたホテルスタッフ、あまりにも外れた場所でインターネットにも載っていないびっくりするような寿司屋の予約を入れてくれたホテルコンシェルジュ、今食べたばかりのおいしいすべての食べ物を記念して、英語でのメニューを私たちのお土産にしてくれたレストランオーナー、皆がチップを辞退した。チップがないのだ。それだけのことである。

この強硬な姿勢で、ある疑問が持ち上がった。あなたは、チップを期待しない国々でより良いサービスを得られるか、それとも日本固有のものか?その答えは少し複雑で、私がティッピングカーブと呼んでいるものに関わってくる。

先月、私は、約400人の経験豊富な国際的な旅行者に対して、彼らが24カ国において経験するサービスのレベルと、彼らがそれぞれの国で外食をした時にいくらチップを払ったかを調査した。サービスの面では、日本が圧倒的な勝利で、それは5点満点で平均4.4ポイントを獲得した。一方、ロシアはわずかな1.7ポイントで最下位であった。

何が一般に受け入れられるチップの慣行を構成するかを解明するために、私は、アンケートの回答と、3つの旅行エチケットウェブサイトの指導の組み合わせにより、「チップインデックス」を構築した。私は、これらの国を並べると、次の3つのグループのいずれかに分かれることがわかった。①かなり大きな額のチップが文化の一部となっているところ、②チップが一般的ではないところ、③①と②の間のどこかに該当するところである。

顧客サービスにおいて高いレベルと評価された国々は、スペクトルの両端に集まる傾向があった。日本とタイでは、チップは稀だが、サービスが優れていると見なされる。最もチップに親しい国である米国とカナダもまた、サービスに対する平均を上回る評価を受けた。

ほとんどのヨーロッパ諸国(ドイツは例外だが)平均以下の得点であった。フランス、スペイン、イタリアのような国々では、しばしば、勘定にサービス料を追加されている。 更にチップを払うのかどうかは、未解決の問題である。フランスへの旅行者の約3分の1は、レストランのボーイに小銭以上は払わないと言うものの、同じ旅行者の4分の1はまともなサービスのために少なくとも15%を払う、と言う。

ロシアのような奇妙なケースもある。彼らは外国人にはチップを期待するが地元の人間に対してはそうでもない、またエジプトでは、チップは一般的であるが、勘定に対する割合ではなく、フラットレートであることがよくある。

これらのすべてで、私たちはティッピングカーブがわかる。もし、ウェイターが寛大な心づけを期待する場合、そこには優れた仕事をするための強力な経済的動機がある。そして、彼らが全く何も期待していない場合には、適切なサービスは経済的要素から完全に切り離され、習慣の問題となる。しかし、国がそういった違いを分割しようとしたり、そのシステムに混乱させるルールを導入しようとすると、その国のウェイターは顧客に不満をもたらす可能性が高くなるようである。
(終)

2011年8月6日土曜日

チェルノブイリの長い半減期

The New York Times(英語原文はこちら
By FELICITY BARRINGER
2011316

チェルノブイリ原子力発電所での爆発と火災を振り返ってみる。私が1986年にソビエト連邦に住んでいたときに事態が明らかになったものであるが、チェルノブイリ原子力発電所が日本での福島第一原発とはどう違ったかを考えてみる。まず、原子炉の設計である。 建物が破壊された爆発は、チェルノブイリの場合、しくじった安全実験が原因であり、福島第一の場合は、巨大な地震とそれによる津波が原因であった。

開示されている情報の量に対する欲求不満が表明されているが、日本の政府関係者は、チェルノブイリ爆発後の数日間におけるソ連の指導者よりも、はるかに協力的であった。

しかし、認識の火花は同じようなところに辿り着く。 例えば、水曜日の新聞に私の同僚のKeith BradsherHiroko Tabuchiによって記述された、放射線の危険地帯で労働する日本の無私無欲な工場労働者である。私は、瞬時に、ウクライナのプリピャチ出身の消防士らのこと考えた。彼らは、ホースを持ち屋根の上に昇り、燃える火災や露出の燃料棒の上に開いた穴に向かって放水していた。問題を抱えた日本の原発周辺地域からの避難について読んだ時に、私は、チェルノブイリの発電所から約30キロの除外ゾーンから住民を除去させるスクールバスが、無限にかと思えるほど連なっていたテレビの画像を思い出す。

もちろん、英雄的な消防士や保護された住民たちの映像は、国営マスコミにより接触不可能な状況に置かれた。物事がいかに徹底的にコントロールされていたかを見せるためだけに、ウクライナ共産党の役人たちは、爆発から一週間も経たないうちにキエフでの毎年恒例のメーデーのパレードを開催することを主張した。私は、自慢できるわずかなウクライナの女の子たちを映し出そうとカメラがいすから飛び上がったり、毒ついたりしているのを覚えている。彼女たちは、目に見えない放射性粒子漂う間に、お下げ髪で笑顔でお礼をしながら通りを行進していた。

国家のプロパガンダの犠牲にされていたことに気づいていたのは、わたしだけではなかった。長く騙されていることに慣れていたソ連の民衆に対してでも、隠し通すことは長くは続かなかった。お祝いの席を注文した同じ党の関係者が、自分の子供を遠くへ転居させていた情報はすぐに広がった。そして数日の間、ウクライナの子どもたちで一杯の列車が、モスクワでキエフ駅に到着し始めた。次から次へと到着する完全に窓を締め切った列車の窓には、小さく神経質になっている表情の子供たちばかりだった。

私が、その駅に行ったとき、子供達に付随する女性は、ただ親戚に会うためのモスクワにやって来たと断言した。ここには何も見るべきものはありません。立ち去りなさい。このメッセージは、政府の執行者として働いていた凶悪犯が好む黒い革のジャケットのようなものを身に着けた敵対的な人間によってさらに説得力を与えられた。彼は権威の空気を漂わせ私に近づき、消え失せろと、私に言った。「誰が、あなたにキエフ駅で質問をする許可を与えた?」彼はうなった。

それから数年間、キエフ、ウクライナの首都、そしてチェルノブイリへの一連の取材旅行を行った私は、キエフ駅とより親しくなった。私が訪問するたびに、道路清掃トラックは、常に水を噴霧し、ほこりをおさえ、放射性粒子が空中に舞い上がらないようにしていた。メーデーのパレードで正常を装った見せかけは、パレード自体ほど長くは持続しなかった。

誇大の必要のない巧妙に作成された物語の一部が、そこにあった。しかし、ソ連当局はそれが価値があるとそれを宣伝することに抵抗できなかった。あの夜、消防士らが原子炉の屋根の上でしたことは、罰金のような、誰でもわかる自己犠牲の一例だった。

消防士のほとんどは、急性放射線症のため2週間以内に死亡した。シフト司令官、中尉レオニードTelyatnikovは、放射線の病気で衰弱させる状況においても生き残った。しかし、彼の指揮下にあった若い消防士らは被爆で死亡した。中尉私が災害の1年後に彼にインタビューした時、Telyatnikov中尉の髪は再成長していた。その時の彼の記述は、忘れられない。

「我々が火災を消そうとしている時、皆は放射線を見ることができるような印象を持っていた。最初、そこには、多くの物質が流れ、光、花火のようでもあった。投げ込まれたかのように、あちこちから湧き立つ光の点滅があった。

そして、人々がいた屋根の上にガスのようなものがあった。それは煙のようではなかった。そこには、煙もあった。しかし、それは霧のようなものだった。それは、独特の匂いだった。」

彼は、屋根の上で吸収された放射線の重い線量で、今後数年間に癌になるという可能性について話をしたがらなかった。「私は、年を取りたい。」と彼は言った。

彼は、2004年、がんで亡くなった。53歳であった。
(終)

2011年8月3日水曜日

日本じゃないの?旅行者たちは、安売りとリスクを考える

The New York Times 英語原文はこちら
By KEN BELSON
2011729

311日に日本の東北地方を襲った地震と津波は、原発の危機がそれに続き、おそらく経済の隅々まで影響を与えているが、直接的に影響を最も受けているのは観光産業である。外国人観光客の数は、これらのトリプル災害以来、50%に急落している。日本政府観光局の発表である。

しかし、4ヵ月で、旅行者は徐々に戻りつつある。ほとんどは、ビジネス旅行者、冒険を求める人やバーゲンハンターで、寿司の夕食で週の貯蓄を使い果たせる日本とはあまり縁のない訪問者たちである。

高価な遊び場としての日本を見ていたので、エリン・コンロイさんとジェニー・マクミーンズさん、ニューヨーク出身の友人同士は、日本への旅行をためらっていた。しかし、この春、彼らはairfarewatchdog.comで、東京までの往復チケットをわずか600ドルで見つけ、それは通常料金の半額で、そして1泊あたり2600円(1ドル=79円計算で約33ドル)でホステルの部屋を予約した。突然、日本が手頃な価格になり、対ドルでも過去最高に近い円高となった。

「我々にとって、いろんな意味で、東京は雲の上の旅行先のひとつだった。」コンロイさんは言う。彼女は、先日の土曜日、世界最大の卸売魚市場のある築地辺りをマクミーンズさんと歩いていた。

放射線の危険性はどうでしたか?コンロイさんとマクミーンズさんは、旅行勧告資料を熟読し、高レベルの放射能にさらされるようなことはないと確信していたと言った。「私の両親は、私たちよりももっと心配していた。」コンロイさんは言う。

旅行者たちは、日本を訪れる安全性をさまざまな方法を使って調べているようである。日本に住んでいる外国人や、日本へ頻繁に旅行する人によって書かれた記事が載っているブログを当てにしている人もいる。コンロイさんやマクミーンズさんのように、政府の勧告に頼っている人が多い。アメリカ国務省の発表は、「福島第一原発の状況は、まだ深刻で、動的な状態のままであるが、福島第一原発の50マイル(80km)の半径の外側では、健康と安全のリスクは低い。」英国では、外務省が、地震と津波に見舞わた東北地方と、福島の原子炉の37マイル(60km)以内には旅行しないよう勧告している。しかし、「これらの特定の領域外の日本の状況は、ほとんど正常に戻り、訪問してもトラブルはない。」とも事務局は話している。

リスクが本当に甚大であれば、政府は日本へ旅行しないように勧告するであろうが、今回は今のところそうではない、と話す旅行者たちもいる。「私は、日本人が今回の災害で弱音を吐かないので、私自身の宿題をしなければならないように感じた。」ジャック・Jaffeさんは言う。彼は、先月、ロサンゼルスから出張で東京を訪れた。日系のエレクトロニクス企業に勤務している。「しかし、私は英国と米国を確認した。両国のウェブサイトは、本質的に同じことを言っていた。原子炉の近くの区域以外は、大丈夫である。」

それでも、危機に対する日本政府の対応については疑わしいままで、土壌や水の放射線レベルを監視する能力も同様である。政府は、牛乳やいくつかの野菜の販売自粛の多くを解除したが、静岡県では、放射線の異常なレベルが栽培された緑茶に発見され、一部の汚染された牛肉は最近、その販売ルートであるレストランやショップで発見されている。しかし、概して、これらは孤立した事象として見られている。日本の食料と水の安全性のファクトシートでは、東京のアメリカ大使館が、「日本政府は、食品や水の供給に対する安全性を確保するための適切な措置を取っている。」と言っている。

疑問はあるが、訪問するかどうか決定は、世界の他の国々が日本をどう見ているかという委任状のようなものにかかっている。一部の自称訪問者にとって、割引航空運賃の保証があったとしても、今、日本を訪問させるには説得力がなかった。

「我々は、ここ2週間で、2回の余震があったばかりで、それとほとんど同時に、訪問しても安全かどうか尋ねるクライアントからEメールが入る。」ダニエル・サイモンは言う。彼は、フォーシーズンズホテル丸の内東京のゼネラルマネージャーで、同ホテルの予約は50パーセント減っている。サイモン氏は、東京には、世界で最も耐震性の高い建物があり、福島市の原子炉からは遠く離れていることを顧客に伝えていると言った。しかし、「メディアでは、日本に関する否定的なニュースがまだまだあるので、ハイエンドのレジャー旅行者は、2012年の中国の旧正月まで戻ってこないと思っている。」

心配は広がり、大阪の関西空港の到着便は、5月に47%減少した。関西空港は福島から360マイル(580km)の距離である。「私は、放射線は大丈夫か、と6回も聞かれた。」エド・コーンハウザーさんは言う。5月から、大阪から沖縄に旅行しているサンディエゴ出身のピアニストである。「ホステルの所有者の多くは、観光は落ち込んでいる、私に言う。外国人が来てくれない理由を知りたがっている。」

コーンハウザーさんは、福島からは遠いとわかっているから、日本に来るのは大丈夫だと感じた、と言う。友人たちの心配にもかかわらず、彼は、国務省のウェブサイトを読んで安心した。「あの地震の後だし、私はまた来るとは思わなかった。」と彼は言う。「友人たちは、大げさに反応した。かなり、大きな国だ。」

しかし、放射線に関しては、自信が揺らぐこともある。東京の、ホテルオークラ、帝国ホテルのようなハイエンドホテルを含めて、ホテルらは、最大50%の割引を打ち出し、旅行者を呼び寄せようとしている。こういった措置はツアーにも及び、香港や他のアジアの場所への旅行者を引き戻すのに役立っている。「今は混雑していないし、パッケージツアーの価格は20から50%ダウンしている。」ヒラタマサキさんは言う。日本観光公社のマーケティングプロモーション理事である。

ホテル経営者には、直接、彼らの宿泊施設がトラブルからはるかに離れたところにあると、お客様に安心してもらおうとする人もいる。ミナトキサブロウさんは、東京での貴美旅館を営業している。最近、旅館のウェブサイト上で、「福島での緊急事態は、外国のマスコミに誇張されています。」原子炉に近いエリアを除き「生活は平常通りです。」と載せた。

確かに、東京では然程の変化はなかった。ただ、少しエアコンの温度設定を上げることを含めた省エネ対策を除いては。仙台、地震の震源地に最も近い大都市でも、繁華街のレストラン、ホテル、商店は営業している。津波の影響がわかるのは、太平洋の数マイル以内の近隣エリアに行くときだけである。

それでも、多くの観光客は慎重すぎるくらいの方がまだいい、とエリー・コリンさんは言う。彼女は、ニューヨークでオベーショントラベルグループで働き、企業やレジャー旅行を扱う。あるクライアントは、62,000ドルの旅行をキャンセルした、彼女は言う。

「記事見出しは本当に見通しが暗く、毎日毎日、ますます神経質になっていった。」コリンさんは言った。彼女は、地震以来、日本への観光ツアーの手配をしていない。「私の感じでは、日本からの何か本当に良いPRがないと、観光旅行者が戻ってくるには来年までかかるのではないでしょうか。」
(終)

2011年8月2日火曜日

独自に放射能調査を行う日本人(福島県いわき市志田名地区 オオコシさん)

The New York Times 英語原文はこちら
2011731
By KEN BELSON 
発信地:いわき 日本

線量計を約625ドル(¥50,000)で購入したオオコシキヨコさんには、単純な目的があっただけだった。彼女の娘や孫がいないのがさみしくて、帰って来て欲しかったのである。

地元当局者らは、彼女の住む町は原発から離れているから安全だと言い続けるだけ。その町が福島第一原発から約20マイル(32km)であろうとも。しかし、娘にとっては疑わしいままである。それは政府からの人間は誰も自分の家の近くで放射線測定値を確認しなかったからである。

そして4月、オオコシ夫人は、近くの森の道路や水田をチェックするために、線量計を使い始めた。驚いた。下水溝の近くでのメーターは、乱暴に振れ、画面には時間あたり67マイクロシーベルトの表示、有害なレベルの可能性である。オオコシ夫人と近くに住むいとこは、当局者に立ち向かおうと盛り上がった。その当局者は彼らに対応せず、政府がやるべき仕事を行っていなかったという彼らの心配を知っていたのである。

彼女のシンプルかつ大胆な行為により、大越夫人は、小さいながらも増え続ける広範囲にわたる汚染に対する対応は政府の失策だとして踏み出した日本人のひとりとなった。その汚染は、指導者たちが認めるように、当初の発表よりはるかに深刻である。さらに遠く東京でも、母親らによって放射性物質のためにテストがを始められている。東京は、原発の南に150マイル(240km)である。放射線の専門家が最近、東京で線量計を利用するセミナーを開いたときには、250人以上の人が集まり、主催者側は一部の人たちに入場を断る事態となった。

何人かの官僚が主導権を握っていても、福島県のある町の役人が中央政府からの助けなしに校庭で土を洗浄し、原子力事故に対する彼の上司の対応が遅いと言って保健省での仕事を辞めた放射線専門家は、福島の市指導者が独自のモニタリングを行うのを手伝っている。

こんな行動は、米国でのコメントにはほとんど値しないだろうが、これが、人々が監視すべき指導者を通常は信頼する国で起きているのだから大変である。そのような信頼は、せいぜい、政府関係者が災害の甚大さに圧倒されるという考えで低下し、最悪の場合、いかに悪事が隠蔽されているという意味で破壊されている。

「彼らは、暴動もしないしとデモもそうは行わない。しかし、手をこまねいているわけでもない。」ジェラルドカーティス教授、日本市民権を取ったコロンビア大学で政治学教授であり長年の日本の専門家は述べている。「線量計の問題で明らかなのは、放射線の危険性というよりも、人々にさらに緊張感が高まっているということだ。」

信頼の腐食は、最初は、遠く東京の顔のない官僚や議員を目指したが、今では、知事、市長と市議会だけでなく、隣人同士を戦わせる潜在的な不安傾向にも及んでいる。その信頼はまた、復元するのは難しいようだ。憂慮する市民からの圧力の下、東京の官僚は、モニタリング範囲を拡大しているが、政府の基準が安全であるのかどうか、またはその関係者らがテストを十分徹底的に行っているのかどうかと疑問視している人々が多い。

上級政府の顧問が子供がそのようなレベルにさらさ​​れることを望んでいないとの涙ながらの記者会見と、親たちからの抗議の後、政府が最近子供の許容被ばくレベルを取り消さなければならなかったことも、役には立たなかった。放射性物質を含んだ牛肉が店舗に並んだことが最近発覚し、新たな警戒が高まった。

「我々は、人々が十分安心できるまで厳格な調査を行う必要がある。」ミホケイイチ氏は言う。彼は、二本松市市長で、二本松市は福島第一原発の西側に位置し、60,000人の人口を有する。二本松市長は、増えつつある直接問題に直接取り組む地元の関係者のひとりで、市の放射線マップを作成するような対策に何百万ドルを費やしている。「これが信頼を回復する唯一の方法です。」

オオコシ夫人は、農家の生まれで、85歳の母親と暮らしている。そして娘の一人は、多くの日本人を惹き付けている都市の誘惑に抵抗し、代わりに、母親と祖母と同じ屋根の下での生活を選択した。

わからない部分では、オオコシ夫人は、彼女がトラブルを起こしたことを隣人に謝った。

それでも、彼女は、他に選択肢がなかったと感じていた。3月に始まった危機から数週間たっても、いわき市には10にも満たないモニタリングポストしかなく、それらのほとんどはより人口の集中する部分に置かれ、オオコシ夫人の住む志田名地区のようなその辺境の村は対象ではなかった。

そのうえ、彼女の蔓草がはびこる農家が、ますますひと気がなくなったのは、彼女の夫が数ヶ月前に亡くなったのと、多くの人と同様娘の家族が逃げたためである。

「私たちの生活は、4人の少年が家の裏手の山を走り回っていた頃は、活気あふれるものだった。」彼女は言う。

オオコシ夫人のテストは、高レベルの放射能を表示し続け、また彼女のいとこであるサカイチュウヘイさんが、同じ地域の農民であるが、市長に彼女のデータを提出するため、他の村人たちと一緒に出かけた。市長は対応しなかった、とサカイさんは語った。

それ以来、彼女は草の根的なモニタリングであると評価を得ている。「私は、最近の会合で私の名前を持ち出すたびに、市の職員は言う、『ああ、あなたが放射線を測定された方ですね。』」と彼女は言う。

測定は国と都道府県が行う必要があると言う市の指導者たちは、調査結果によっては起こりうる汚名の一切を避けたかったために行動に移さないと、サカイさんは考えている。

戦いの原動力は、貴重な援軍の到着とともに動き始めた。その一人はサトウカズヨシ氏、長い間原子力産業に反対してきた市議会議員で、多くの人々が第一原発で働く都市においては不人気な立場であった。

アマチュアが調査した線量計の測定値は粗雑と考えられるが、彼らは放出された放射線の1種類しかを測定しておらず、人がどのくらい放射線にさらされた可能性がを調べていないため、サトウ氏は、米国エネルギー省と日本政府による空中や土壌の測定値のマップを見た後に、オオコシ夫人の危惧が生まれたと考えた。また、かなり基本的だが、それは、137セシウム134とセシウム放射性同位体の高レベルのインジケータは、まさに彼女の村、志田名地区の上に鮮やかな黄色の区域を示していた。

今度は、市議会議員が、キムラシンゾウ氏、保健省を辞めた放射線の専門家を採用した。キムラ氏は、その後、オオコシ夫人の測定値が正しかったかどうかを確認するために広範なテストを行っている。彼は、測定は正しい、と言い、そして悪いニュースである。

放射性物質は、常に決まったパターンに合致せず、風向や地形の違いひとつで、1つのエリアをひどく汚染するが、近くの他の地域はそれほどでもなかったりする。いわき市の一部の地域は放射性物質の比較的低いレベルを示したが、志田名地区のある農場からの土壌サンプルは、ウクライナのチェルノブイリ原発事故の現場周辺の避難帯などに見られるように高い放射性物レベルを示している、キムラ氏は言う。

いわき市は、最終的に空気中の放射性物質の監視を開始することを決定したが、その問題がどの程度深刻なのかはまだ特定できていない。オオコシ夫人は、測定値が正しいと認められたことで慰めにはなってはいないが、彼女が変化を起こしたことは感じている。彼女は、騒ぎを起こしたことで謝罪をした友人が、その必要はなかったと彼女にはっきり伝えたことを、知っている。

「彼女は『いいえ、いいえ』」と言い、 オオコシ夫人は思い出した。「もし、あなたが測定していなかったら、私はなんの情報も得られなかったんだから。」
(終)
(カミイズミヤスコ、記事寄稿)