2011年7月31日日曜日

チェルノブイリの消えない傷跡

The New York Times英語原文はこちら
July 11, 2011
By JOE NOCERA

奇妙なことに、史上最悪の原子力事故の25周年は、動物についてのジャーナリズムによって現れた。2つの雑誌、ワイヤードとハーパーは、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所周辺のいわゆる退去ゾーンにおける、動物の生命の再起についての長い記事を出版している。

すべてが順調なようだが、最近の日本の原子力事故により、あなたはむしろ、チェルノブイリの影響を受けた人々に何が起こっているか知っているだろうか?

私は、こんな人を知っている。彼女の名前は、マリアGawronska30歳、スマートで魅力的な、マリアは2004年にニューヨークに移住したポーランド人である。私は、おそらく4年前、私の婚約者を通して彼女に会った。彼女は、いつも、タートルネックを着ていた。たとえそれが、真夏の暑い日であったとしても。

マリアの故郷、ポーランド北部のオルシュティンは、チェルノブイリから400マイル(640km)以上離れている。チェルノブイリ原子炉がメルトダウンを起こした19864月、彼女は5歳だった。膨大な量の放射能が吐き出され、ウクライナ、ベラルーシ、そしてポーランド北部にもまたがり拡散した。

「最初は」と、マリアは言う。「爆発が起きたが、危険ではない、と言われていた。」しかし、数日たって、ソ連はしぶしぶ事故を認めた。マリアは、皆がヨウ素の錠剤を与えられ、そして室内に留まるように指示されたのを思い出す。彼女は、次の2週間、家の中に滞在した。

彼女は、ポーランド人が事故の健康影響について知るまでにに数年かかると、耳の早い人たちが話しているのも覚えている。とりわけ、放射線は甲状腺に大きな障害を与えるので、ヨウ素の錠剤を摂取させた。甲状腺が吸収する放射性ヨウ素の量を最小限に抑えるためであった。

案の定、25年に渡り、オルシュティンでは甲状腺の問題が爆発した。病院全体が甲状腺の病気にかかりっきりになっていたと、マリアは言った。全く誇張ではない。アルトゥール・ザレウスキ博士、オルシュティンの甲状腺外科医は、1990年代初頭以来、彼の業務で甲状腺手術が大幅に増加していたことを確認した。一部の人々は甲状腺癌にかかっているが、多くは、甲状腺肥大、または正常に機能しなくなった甲状腺の病気にかかっている。

しかし、アルトゥール・ザレウスキ博士は、甲状腺疾患がチェルノブイリにつながる科学的証拠がないことも、私に助言した。ソ連の非協力も一因であり、そしてランセットが「相当な難題」として記述することも一因で、ポーランドの甲状腺の問題にチェルノブイリ災害がかかわっている可能性を示すかもしれないため、疫学的研究が始められたことはなかった。

行われてきた研究は、がんに焦点を当てていた。ランセットによれば、ベラルーシとウクライナでの小児白血病および乳癌の増加は、チェルノブイリ事故による可能性がある。しかし、「欠陥研究の着想」であり、これらの研究は決定的ではない。

しかし、私が、マリアの母、バーバラGawronska コザックさんにeメールを送った時には、彼女は頑固に「私は、チェルノブイリ事故が甲状腺の問題の増加させたと、確信している。」と言った。バーバラさん自身も、科学者(ただし、疫学者)であり、「ポーランドの平均的市民」たちもそう信じていたと、私に言った。彼女自身、事故の10年後、甲状腺手術が必要となった。マリアの母は、2回、甲状腺手術を受けた。彼女の親友は、1度、甲状腺手術を受けた。高校時代の古い友人は、最近、甲状腺腫を摘出した。マリアは、家族のうち、彼女の父親だけが、甲状腺に傷害がなかったと、私に言った。

そして、約5年前、マリアの番だった。彼女の甲状腺が徐々に拡大するにつれ、彼女の気管を圧迫するようになり、特定の場所で息をすることが難しくなった。もちろん、その拡大が見苦しいのが、彼女がいつもタートルネックを着ていた理由だった。ニューヨークの専門医は、そのような症状は見たことがなく、治療する手術は高リスクで彼女の声帯を損傷する恐れがあると、彼女に告げた。そのため、マリアはポーランドに戻り、彼女の故郷で手術を受けることにした。今年の初め、彼女はその手術を受けた。

チェルノブイリ事故のように、我々が、福島第一原子力発電所事故の影響で、その近くに住んでいた人々の健康にどのように影響するかを知るまでには、長い年月がかかることになる。はるかに少ない放射線放出ではあるが、それは水の中に漏れ、形跡は食糧供給において発見されている。そのため、我々は、原子力発電にどう対処するかを考える。原子力発電は、クリーンエネルギーに対するじらすような期待を抱かせながらも、常に、一旦間違いが起こると大災害となる危険性をはらんでいる。単純な問題ではない。 福島第一のような事故があるたびに、我々は思い知らされる。チェルノブイリもそうである。

マリアは、と言えば、少なくともこの話はハッピーエンドである。ザレウスキ博士、彼が彼女の手術を行ったが、その甲状腺の大きさを見たときには尻込みはしなかった。手術は、成功だった。彼女の声帯は、正常のままである。彼女は以前よりも元気になっている。

マリアは、彼女がオルシュティンにいる間、古い友人を探したと、私に言った。彼女がオルシュティンに戻ってきた理由を聞いたとたんに、「みんなが笑って、自分の傷跡を指差し合った。」と彼女は言った。

彼女がニューヨークに戻ってから間もなく、私が彼女に会ったとき、彼女の小さな傷に気づかずにはいられなかった。彼女は、タートルネックを着ていなかったのである。(終)

(モニカ・アロンソン:翻訳とレポート作成の支援)

2011年7月28日木曜日

マクドナルド ハッピーミールのスリム化を発表

The New York Times 
2011727
By STEPHANIE STROM

健康への支持と保護者からの圧力には抗しがたいと、マクドナルドは、ハッピーミールをダイエットする。

同社は、火曜日、子供に人気のメニューについて、全体のカロリー数を20%減らそうと努力した結果、フライドポテトの量を半分以下にし、果物を加えることを発表した。

しかし、マクドナルドの譲歩はそこまでだった。おもちゃは、依然としてハッピーミールそれぞれに付いてくる。この取るに足らないおもちゃは、多くの場合の「トイストーリー」のような映画に抱き合わせで、子どもたちがふんだんにカロリーを含んだ食事を欲しくなる強力な影響を与えるいう批判にもかかわらずである。

ハッピーミールの売上は、すべてのマクドナルドの売上高の10%未満である一方で、1979年に発表されたそのシグニチャーボックスとその内容は、近年では人気の的になっている。議員や消費者団体は、おもちゃとファーストフードの子供らの繋がりを断とうと結集している。オバマ夫人と国家公衆衛生当局が、国の若者の間での肥満率が推定17%に達していることを指摘しながら、ますますの努力を重ねている。

例えば、サンフランシスコでは、特定の栄養所要量が満たされていない限り、子供の食事におもちゃを含めることを禁止している。ニューヨーク市議会議員は、同様の法律を提案している。

他の外食チェーンにおいては、子供向けのメニュー内容を改善し、市場アピールを排除する呼び出しに応じるマクドナルドよりもさらに進んでいる。6月、ジャックインザボックスは、子供の食事に含めていたおもちゃの終了を発表し、今月、バーガーキング、IHOPなど多くの他のレストランチェーンが、全国レストラン協会が主導する努力を支持した。同協会は、若者のために健康を考えたチョイスを提供、促進している。

「マクドナルドは、パン全体を与えず、半分または3分の2のパンしか与えていない。」マイケルF.ジェイコブソン氏は言う。彼は、公益科学センターのエグゼクティブディレクターで、ハッピーミールにおもちゃを含めていることに対し、マクドナルドを提訴しているカリフォルニアのある女性の代表をしている。「これは、正しい方向へ向かう重要なステップである。」

マクドナルドは、保護者や消費者団体の圧力に対して、ハッピーミールの構成を変更していたことを明確にした。また、ソーダやデザートの例外を除き、食品のすべてからナトリウムの含有量を15​​%まで削減することを約束した。それは、塩分を制限するための期限を2015年に設定し、2020年までの残りの年数を使って、砂糖、飽和脂肪、カロリーを削減し、商品ボリュームを調整すると述べた。

新しいハッピーミールは9月に導入予定で、20124月までに、同社の14,000店舗で展開される。同社はすべて、(ハッピーミールに)リンゴのスライスが含める予定だが、現在、他の提供チョイスとして含まれている810のスライスよりも少ない、35のスライスである。(リンゴのディップは、同社がキャラメルディップソース段階的に廃止した後に変更される予定である。火曜日の発表による。)

「全メニューにおいてボリュームを小さくし、10%の子供に対してボリュームを大きくするという調整である。何もないよりはましであり、おそらく外に食べに出かけるときに新鮮な果物や野菜を食べるように子供を慣れさせることができるであろう。」とジェイコブソン氏は言う。

保護者は、フライドポテトの代わりに、さらなる果物や、まだ時間がかかりそうだが、野菜を選べるようになるであろう。マクドナルドはまた、無脂肪チョコレートミルクのチョイスを提供する予定で、低脂肪乳や伝統的なソーダのチョイスに加えられる。価格の変更は、予定されていない。

現在のチキンナゲットハッピーミールは520カロリー、脂肪26グラム、再構成されたバージョンでは、1%のミルク、410カロリー、脂肪19グラムになると、同社は発表した。

同社は、ハッピーボックスから完全にフライドポテトを排除することを試みたが、それは顧客からの苦情が多く発生した、と述べた。ダンヤ・プラウド氏、マクドナルド社の広報担当者は、マクドナルドのテストではまた、保護者たちが、利用可能なドリンクの中でソーダを望んでいたことが分かったという。「我々が、本当にこれらのテストを通じて感じたことは、最終的には子供たちを健康にするのは親の判断である。」彼女は言う。

マクドナルドは、長い間、保護者に対し、フライドポテトの代わりに果物のチョイスを提供してきた。しかし、食料政策と肥満のためのエール大学のラッドセンターの調査では、わずか11%しかそのチョイスを利用していなかったことがわかった。

ファストフードの批評家の一部や公衆衛生当局は、この動き(オバマ夫人は、「前進の一歩』と呼んだ)を賞賛しながらも、まだマクドナルドの対応は不十分だと不満を言う人が多い。マリオン・ネスレ、ニューヨーク大学の栄養学教授と食品業界のある辛口批評家は、マクドナルドがハッピーミールのソーダについて何も制限もしていないと、この変更を「見せかけ」と称した。

「彼らは、これで巨大な宣伝効果を得ようとしている。少ない量のフライドポテトで。」ネスレ博士は言う。「私は、感心しません。」

実際、リンゴがソーダ付のハッピーミールに追加されたとき、新しいパッケージにおける糖の量は増えている。

食品の栄養情報についてより良く知ってもらうようにする努力の一環として、同社は、初めての一般向けモバイルアプリケーションを開発した。マクドナルドの経営陣はまた、彼らの懸念について、消費者から直接聞くために、国を巡る予定である。

「我々は、私たちができることはやっている。」プラウド氏は言う。「我々は、時代とともに進化している。時代が我々を必要とし、顧客たちは、より多くの選択肢を提供することを、私たちに求めている。」

プラウド氏は、この変更を持ってしても、ハッピーミールはサンフランシスコでの要件を満たしておらず、例としては、果物と野菜の提供を両方要求している。それは、ある会社が子供の食事と一緒におもちゃを含めることができる前からのことである。

公衆衛生の専門家は、条例が12月に施行される前に、マクドナルドがその条例に対し法的な挑戦をしかけると予想しているが、プラウド氏は、マクドナルドは、今回のチョイスを評価していると述べた。

(ウィリアムニューマン氏:記事寄稿)

同日付けのニューヨークタイムズのマクドナルドの全面広告
『チェンジング・トゥゲザー 皆さんとともに始まった』

『昨日、我々は、メニューの変更について、いくつかの発表をしました。しかし、実際には、我々は日々、変更を行っています。なぜなら、お客様のニーズが絶えず変化するからです。

ナトリウムが問題になれば、それを削減するように努力しました。人々が、飽和脂肪に関心を持つようになるにつれて、我々は、味を変えないで食品内の飽和脂肪を減らす方法を模索しました。そして、数年前、フライドポテトでの飽和脂肪を0グラムにまで削減しました。最近、この国では、子供がどのように暮らし、何を食べているかという重要な会話を取り交わすようになりました。我々も、同じ討議を行っています。

そして、今、我々は、重要な変更を発表します。我々は、ハッピーミールに果物を追加します。そして、新しい、子供用サイズのフライドポテトとともに、一番人気の高いハッピーミールにおいて、平均20%のカロリー総量を削減しました。来年を目処に、チキンナゲットを2003年比で23%のナトリウム削減します。さらに、2015年までに、国中のメニューにおいて15%のナトリウム削減をお約束します。

57年の間、我々は、お客様からの信頼を頂いております。我々は、それにお答えできるよう、ご希望の品をご希望の時間にお届けしております。つまり、お客様に望まれることが、お客様にご満足頂けることでございます。』

(終)

2011年7月26日火曜日

前例のない、北朝鮮で規定コース外の写真取材

By JEAN H. LEE  
2011726
発信地:ピョンヤン 北朝鮮


同級生の手を握り、一緒に小さな男の子がスキップする。彼の頬は紅潮し、彼のくまのプーさんのトレーナーには、偉大な指導者の笑顔のバッジが留められている。チュチェ塔の隣にあるドイツ風パブでは、緑色の軍服を着た男たちがビールを片手に冗談を言い合う。女子学生たちは、先鋒隊の赤いスカーフを身に着けて、私も子供の頃に習った古典的な韓国の曲を歌いながら、調和して体を動かす。

私が目にする至るところで、共産主義の北朝鮮は、外国の世界でもあり、私のような韓国系アメリカ人の目には馴染みのある世界でもある。男達はマオスーツを着用し、子供たちはミッキーマウスのリュックサックを背負う場所であり、そこでは、彼らは互いを「同志」と呼び、スパイシーなキムチが好物である。

2008年にAP通信のソウル支局長になって以来、私の北朝鮮への目を見張るような訪問も5度目である。アジア地区のチーフカメラマン、David Guttenfelderは、過去12年間に何度もこの国を旅している。
今年、Davidと私は、前例のないアクセスを与えられている。我々は、この国の田舎に旅した。北朝鮮のジャーナリストを伴ったが、政府のボディガード付きではない。私たちは、携帯電話を持ち、インターネットアクセスを与えられ、そしてドライバー付きのバンで、南は開城、北は妙香山、南はNampoまで訪れた。

この私たちの旅行中、世界で最も隠されている国の一つで、日常生活を垣間見ることができ、変化の最前線にある国であることがわかった。

我々が取材ツアー中に目にするもののほとんどは、慢性的な経済困難に苦しんでいる国ではなく、明るい側面を見せるように意図されている。平壌の近代都市において、貧困を目の当たりにすることはない。我々は、キラリと光る廊下や、大きく、シャンデリアで飾られたロビーを、キラキラ光るドレスやきちんとした軍服を着たガイドを介して案内される。ガイドたちは台本があるかのように話をする。生け垣は刈り込まれ、ベゴニアが満開である。

しかし、これらの段階的な訪問を通し、率直な機会を得て、西側諸国に対して得体の知れない社会にも人間の顔が見え隠れする。それは、典型的に描かれているよりももっと複雑で質感があるものである。

(終)

2011年7月21日木曜日

困難な道をゆっくり前進 −国際女子サッカー界のこれから−

The New York Times 英語原文はこちら
By JERÉ LONGMAN
2011718
発信地:フランクフルト

先日の女子ワールドカップでは、今まで、女子サッカーをどれだけ魅力的に引き立ててきたか、そして今後、女子サッカーがまだどれだけ続けてゆかなければならないかを、まじめに思い知らされた。

日本の勝利で、被害にあった日本国民と、日本チームのリズミカルなパスと巧みな動きを受け入れるようになったサッカー界は、励まされた。フランスでも、サッカーというスポーツを、エレガントでスタイリッシュなものに押し上げた。

「日本チームのプレーに対して、言われていることに、」とピア・サンデイジ氏、アメリカチーム監督は語った。「日本チームは、ボールと戯れている。それは、女子サッカーの将来にとって良いことだ。」

アメリカチームは、日曜日の決勝において、優勝の機会を逃したことや、ペナルティーキック時に珍しく感じた不安を感じたことを、きっと嘆くであろう。しかし、日本のペナルティーキックの勝利で、女子サッカーもグローバル化が進み、そして競争力を持ち、もはや、米国、ドイツ、スカンジナビア諸国の、世界の一部の国だけに支配されている時代ではないことが証明された。

コロンビアは、このワールドカップで初めて出場した。そう、ギニアもそうだった。フランスは、初めての準決勝進出、日本も、初めてのチャンピオンであった。大差だった試合でも、4-0で、2007年にドイツがアルゼンチンに大勝した11-0よりもはるかに僅差であった。

チケットの80%が売れた。観衆は、理解があり、行儀がよかった。忠実なゴールキーパーが多く、ゴールシーンは感動を呼んだ。引きつけられる競り合いとしては、ドイツに対する日本の見事な準々決勝での勝利や、ブラジルに対するアメリカの興奮する巻き返しには、誰もかなわないだろう。

12年前、女子ワールドカップ決勝で、アメリカが中国に対し、ペナルティーキックで感動的な勝利をおさめた時は、スポーツとしての大きな革命だと考えられた。それは、タイトルナインとして知られる性平等の法律によって約束されるように、参加すべき絶好の機会が与えられることによって、実現性のブラジャーむき出し姿スポーツのお祝いであり、女性が到達可能なレベルの確認であった。

先駆者であることの負担や責任から解放され、現在のアメリカの選手たちは、純粋にプレーすることができ、今までの彼らが正しく評価されるようになった。速度、勇気、深さ、そして勝利が断固とした粘り強さで奮い起こされるという不動の信念にへこたれない、素晴らしい選手たちである。

1999年、女子サッカーやスポーツにまつわるすべての少女と女性にとって重要であることに明らかな自覚があった。」ブラン・チャステインは、言う。その年のワールドカップ決勝で、勝利のペナルティキックを決め、そのトーナメントでジャージを振るのお祝いを率いた人である。「今考えると、このチームがもっぱら主流と見られている。まだこういった感じである。『彼らが美しいだとか、すばらしい』もう、それはいい。しかし、以前に比べたら、実際のサッカー自体についてのより詳細なコメントを耳にするようになった。これは、大きな進化である」

また、ジュリー・ファウディは言う。かつてのアメリカのキャプテンである。「今、それは『ああ、女性がこんな機会を持ち得ていることは素晴らしい。このゲームがこんなに広まっているのを見てください。』」

今回は、まだ6度目の女子ワールドカップの開催であった。女子の大会は、1991年に始まった。最初の男子のワールドカップ開催からの60年後である。ほんの7年前、ゼップ・ブラッター、FIFAの会長は、女性がタイトなショートパンツを身に着けることによってゲームの魅力を向上させるかもしれない、と言った。やるべきことは、まだたくさんある。

Eucharia Uche、ナイジェリアのコーチは、同性愛嫌悪発言で彼女のチームを台無しした。彼女は、同性愛を、「汚い問題」とか「精神的、道徳的に非常に間違っている」と呼び、レズビアンのように振る舞うグループを取り除こうとした。これは差別に関するFIFAのルールに明らかに違反していたが、FIFA自身の取り締まりを非難されるように、FIFAからは、何の言葉もなかった。

ドイツとフランスの選手たちは、ワールドカップのために注意を引くために、必死の試みでヌードを持ち出した。BBCは、フランスと対戦するイギリスの準々決勝を放送するように圧力を受けなければならなかった。試合は、英国で180万の視聴者を集めたが、現代的なサッカーが発明されたこの国ですら、女性の試合は大きく無視されたままであった。

「正直に言うと、私の仕事の同僚や友人は、私が女子ワールドカップを担当しなければならないことに残念がっていた。」イアンダーク、ESPNの英国の解説者は言う。「まるで、処罰のようだった。私、何か悪いことでもした?」

少なくともイギリスは、ワールドカップに出場した。1999年に決勝に進出した中国は、今年、姿を見せなかった。ファウディは、中国出身の昔のチームメイトと話し、中国では、親たちが子供たちの教育レベルが下がるのを恐れて、スポーツ教室に自分の娘を行かせることに消極的になっていると言われたと、話している。

中国は、経済的に繁栄するにつれて、ファウディは、「親たちは、自分の子どもを落ちこぼれにしたくない」と言う。

ブラジルは、ウォームアップ試合を少しこなしたが、特に鋭敏な感じはしなかった。ブラジルのサッカー連盟は、女性のゲームを十分に擁護したことはない。これは、男子サッカーが力を持つ国において、女性が直面する長い困難な道のりを反映している、とアンドレイ・マーコビッツは言った。彼は、ミシガン州の教授で、「オフサイド:サッカーとアメリカの例外論」の共著者である。

ドイツを除き、ラテンアメリカやヨーロッパでは、支配的な男性のサッカーの文化における女性は、非常に困難である。男性は、女性を自分の勢力範囲として見ておらず、受け入れず、常に見下し、達成者とは考えない。」マーコビッツさんは言う。

「彼らは、女性を、純然たる侵入者だと見ている。」彼は言う。

このワールドカップで、アメリカは多様性の面で、一歩後退した。アメリカの選手は、すべて白人だった。一方、イングランド、フランスとドイツは多文化の布陣を敷き、メキシコは、メキシコ系アメリカ人の選手を取り上げた。おそらくこれは、多くのコーチが言う、アメリカ女子のゲームを左右する青少年育成の停滞を象徴している。

「指示はまったく無かった。」トニー・ディシコ氏、1999年ワールドカップのタイトルを取った時のアメリカのコーチは言った。「そのせいで、我々は、人気を失った。」

上級レベルでは、米国は、今、運動能力に技術的な精巧さを加え、世界最高レベルに君臨しなければならないという難攻不落の真実に直面している。

「その通りだ。」アメリカチームコーチ、サンデイジ氏は言った。

「日本とフランスを見てください。」

(終)

2011年7月18日月曜日

国家を励ます蘇ったサッカーチーム(ワールドカップ女子サッカー 日本優勝)

By JERÉ LONGMAN
2011717
発信地:フランクフルト

日曜日、日本は、初めて、ワールドカップ女子で優勝した。それは、希望、再起、忍耐、冷静と少なくない幸運で築き上げられた大勝利である。被災国を盛り上げながら、何とか勝とうとしたその試合は、米国が支配しながらも抑えることはできなかった。

試合結果は、2-2で終了した規定の30分の延長戦の後、日本が、ペナルティキック戦を3-1で制した。洗練されたパッシング攻撃は、徹底したアメリカのディフェンスによって鈍らされながらも、日本は、穏やかに、立て直しながら、アメリカの2回のリードを跳ね返し、そのがんばりと決意の中で、断固として戦った。

そのがんばりは、、両方の日本のゴールにつながったボールの思いがけないのバウンドと、少し広がりすぎてクロスバーとゴールポストに当たったアメリカのボレーシュートで、最終的に報われた。そして、ゲームは、ペナルティキック戦という容赦のない勝敗決定に至った際、日本チームはぐらつかないままであった一方、アメリカチームは、珍しく落ち着きを失っていたのが明らかでだった。

もし、日本チームがラッキーであったと言うならば、それは、日本チーム自身でもたらした幸運であった。この日曜日まで、それは米国に対しての戦績は、0223分であったが、この一晩で、この以前の一方的なライバル関係は、サッカーの最も重要な試合において、違う方向に転がった。

「私のサッカーの神が、初めて、米国に対し勝たせてくれた。」コーチのササキノリオさんは言う。「間違いなく、何かの助けが加わったと思う。」

この日本の勝利は、地震と津波が国の東北地方沿岸を襲った4ヶ月後にもたらされた。15,000以上の人々が死亡し、数千人が避難を余儀なくされた。そのシーズンの出場辞退を余儀なくされたプロ日本人女性のチームも例外ではなかった。大会期間中、代表チームは、チームの勝利が日本の人たちを励まし、誇りをもたらしてほしい、と繰り返し話していた。

「彼らは、地震災害の被災者に勇気を伝えたい、と言い続けた。」NHK、日本の公共放送ネットワークは、月曜の早朝、優勝を伝えた。

東京では、ファン達が抱き合い、声援と通りにあふれ、始発列車に向かっていた。ニュース報道局らも、ワールドカップの結果を伝えた。テレビ朝日は、「歴史的な勝利」だと伝えた。

「日本列島中が祝福している。」と報じた。

米国は、PK戦で負けずに、4-1で勝てたかもしれない試合を落としチャンスを逸したことを、しばらく悔やむことになるであろう。しかし、日本は、屈しなかった。アメリカ人がリードを奪う度に、日本は、逃さず攻撃し、追いついた。

「アメリカチームは、ゴールを決めると、足が止まった。」ササキさんは言う。「我々は、それをわかっていた。」

アレックス・モーガンが、69分、ロケットシュートで先制し、1-0とした後、日本は、アメリカのディフェンスのぎこちないミスを利用した。81分、レイチェル・ビューラーは、必死のクリアランスの試みたが、彼女のパスは、アリク・リーガーから、突進してきた日本代表ミッドフィルダーのミヤマアヤに渡った。

彼女の側足のシュートは、無防備なホープソロを破りアメリカのゴールへ。1-1とし、30分の延長戦に持ち込んだ。

「走りに走った。」サワホマレ、日本チームキャプテンは言う。「疲れ果てていたが、走り続けた。」

104分、フォワードのアビー・ウォンバックは、どのサッカー女性選手よりも見事にすべきこと果たした。モーガンからのクロスボールをヘッディングで合わせ、ネットに沈めた。米国は、2-1でリードしたものの、予断の許さないリードだった。再び、日本が反応した。

117分、サワ、32歳、5度目のワールドカップ参加、コーナーキックを方向を変えウォンバックをかわしゴール。2-2の同点に持ち込んだ。沢のゴールは、ワールドカップ大会中で5本目のゴールだが、これほど切迫したものはなかった。そして、勝負は、PK戦に及んだ。

12年前、アメリカチームは、中国に対してPK戦を制し、ワールドカップで優勝している。この大会の準々決勝でも、アメリカは、もつれるPK戦を破り、ブラジルに競り勝った。しかし、この時のアメリカチームは、あまり前向きな感じではなかった。ゲーム終盤のラリーでも、ゲームを立て直すのではなく、リードをあきらめているようだった。

「日本チーム以上に、アメリカチームにもプレッシャーがかかっていたようだ。」とササキは言う。「我々は、言い合った。『こうして、我々は、ついに決勝まで来て、PK戦までやって来た。我々には、何かが憑いている。』それで、幾分プレッシャーが解れた。おそらく、この時の状況に対処するのは、日本チームの方がやさしかったのだろう。我々は、追い付いた立場だった。心理学的観点からみても、PK戦は日本チームが有利だった。」

シャノン・ボックス、最初のアメリカのペナルティーキックは、キーパーのカイホリアユミの右足で阻止された。これが、アメリカチームの気力を奪い、やる気をくじいたように見えた。カルリ・ロイドは、彼女のキックを膨らましてしまった。カイホリは、トービン・ヒースのペナルティーキックも止めた。唯一、ウォンバックだけは、落ち着いて、アメリカチームのため、ペナルティーキックを決めた。

「私は、PK戦では助けられた。アメリカチームがミスをした。」カイホリは言う。彼女は付け加える。「PK戦では、ただ、自分自身を信じるだけ。私には、とても自信があった。単純に、私に向かって来るシュートのすべてをクリアしたかっただけ。」

一度は手の届かないところに見えた大勝利を、勝ち取るこのチャンスに、日本代表ミッドフィルダー、クマガイサキは、腰に手を置き、彼女の腕を伸ばした。そして、ゴール左上隅にペナルティキックを放った。

「本当に、言葉がない。」ウォンバックは言う。「ほぼ互角だった。」

日本人選手は、競うように共に勝利を分かち合い、紙吹雪でシャワーを浴び、そして、国際的な災害救援に関して、「友達である世界中の皆さんへ、あなたがたの支援に心から感謝しています。」というバナーを広げた。

今回のワールドカップでの勝利ごとに、日本チームの自信は、チームの愛称で呼ばれているピンク色の花のように、開花していくように見えた。以前はヨーロッパのチームを破ったことがなかった日本が、今回はドイツやスウェーデンを片付けた。そして、このトーナメントで優勝。米国に対して、ペナルティーキックというどちらに転ぶかわからない勝負を制した。

「もし、ワールドカップで、他の国が優勝するとして、それが日本であるならば、私は、本当にうれしく誇りに思う。」ロイドは言う。「心の奥底では、我々が勝つ運命なんだと、本当に思っていた。でも、おそらく日本が勝つ運命だった。」

今回は、日本チームにとって、アメリカチームに対するすばらしい転機であった。日本チームは、今年、アメリカに3度破れている。5月に米国で披露された2回の敗北のときは、日本チームは、地震と津波からか茫然としていたようだった。ジュリーファウディは話した。彼女は、元アメリカチームのキャプテンで日本チームのサワとも友人である。

ファウディは、その米国での2度目の敗北の後、サワと話をした。サワは「我々は、大丈夫。」と答えた、と言う。

「でも、大変な状況であることは、わかっていた。」ファウディは最後の日曜日、決勝戦の前に言った。「日本チームが、どれだけ悲しみや苦しみで圧迫されていたかが、わかった。悲しい。日本チームは、衝撃と苦しみを乗り越えて、楽観さを持ち始めている。今回は、全く違うチームのように見える。」

チームは今、世界の頂点に立っている。
(終)

2011年7月17日日曜日

震災から甲子園大会出場まで 苦悩を抱える東北高校野球部

By KEN BELSON
2011715
発信地;仙台、日本

日本中の高校野球選手は、全国優勝を目指し甲子園球場でプレーすることを夢みている。その夢は、一握りの選手しか叶わないけれども。東北高校野球部も例外ではない。東北高校は、日本で最高の投手と言われるダルビッシュ、シアトルマリナーズのストッパーであった佐々木主浩選手を輩出するスポーツ大国である。彼らは、甲子園大会への出場は40回果たしてきたが、まだ優勝したことはない。

41回目の東北高校の挑戦は、今週、志津川高校を8-0で破り、幸先の良いスタートを切った。それは、8月の甲子園大会に宮城県代表チームとしての出場校を決めるために地域大会の開幕戦であった。東北高校は、土曜日に次の試合となるが、その出場権を勝ち取るために、さらに4試合で勝たなければならない。

かかるプレッシャーは、相当だ。甲子園でのトーナメント戦は、ワールドカップのようなものである。この国では、数週間の間、皆がこのトーナメントに釘付けになる。毎年、春には地区から選抜形式で、夏には、地域大会の予選方式で出場校が決まる。しかし、4カ月前に東北地方を襲った地震と津波の影響で、今年の挑戦は、違った意味を持つことになった。

15マイル(24km)内陸にある、東北高校は、物理的な深刻な被害は免れた。しかし、親族を失い、住まいが流された選手もいる。災害1週間後というチームの春の甲子園大会への参加もまた、流動的であった。

災​​害がきっかけとした混乱で、選手、コーチ、コミュニティが、この国の緊急時に、野球をすることがいかがなものかということを議論した。数年間の練習を経たものの、選手たちは、野球とほとんど神話的意義を持つ甲子園大会への不屈の専念に疑問を持った。結局、彼らは甲子園に行った。苦悩の末のことである。

「選手たちにとって、甲子園は非常に有名で、彼らが行きたいと思っていることは、よく知っている。」タケウチミツルさん、チームのコーチの1人は言う。「しかし、水や電気がないときに甲子園に行くことは、適切な選択のようには思えなかった。確かに、彼らの大きな夢ではあったが、揺らいでいたのも事実だ。特に3年生にとっては、最後のチャンスであった。」

選手たちは、その日、311日の午後は、練習中であった。地震後に停電となり、津波が海岸に激突していた瞬間のテレビ中継を見ていなかった。寮も停電のため、選手の多くは、食料と水を欠くにもかかわらず、避難所となった近隣の学校に逃げ込んだ。強い余震が続き、ほとんど眠れなかった。携帯電話もなく、自分の両親と連絡の取れない選手がほとんどであった。

大阪近郊で開催される甲子園大会に行くことができるだろうか、トバ エイタロウさんは疑問に思っていた。バックアップキャッチャーとチームの副キャプテンにとって、それは最初の遠征となる。しかし、トバさんは、津波による被害を知り、甲子園は待つべきであろうと考えた。

「次の日、私は、テレビや新聞で、海岸沿いの町の状況を見た。」トバさんは言う。「そして、私の中で、野球の問題は突然消え、他人の安全を心配し始めた。」

トバさんと選手たちは、難民センターで支援したり、水を運んだり、料理をしたり、食べ物を探したりしながら、その後数日間過ごした。選手たちは、避難所の皆が終わるまで食事をしなかった。電話回線が復旧し、生徒らは、やっと自分の家や家族と連絡がとれた。

生徒らは、何をすべきかひどく悩んでいた。甲子園大会を出場辞退しても、誰もそのことをねたみはしないだろう。学校の多くが破壊され、数千人の人々が死亡または行方不明であった。そんなに深い悲しみの中で、野球など取るに足らないことのようだった。大会ををキャンセルすると考えられていたが日本高等学校野球連盟は、開催を決定した。福島からのチームは、出場を辞退した。

しかし、隣人やもっと広い世界に対して、災害に直面したその回復力を示すために、選手の多くはチームが参加しなければならないと感じていた。勝っても負けても、フィールドにいる選手たちの姿が感動を呼ぶであろう。

イガラシユキヒコさん、チーム監督は、熟考に熟考を重ねていた。彼とやりとりする生徒の親や、卒業生、他の人のほとんどは、チームを送り出すことに賛成していた。すべての生徒の親に対して、子どもたちが安全であることを通知された後、イガラシさんは、318日、大会に参加することを決めた。主催者に対する参加通知期限のその日であった。

「私がマネージャーとしての5年間のなかで、最も困難な決断だった。」とイガラシさんは言う。「生徒たちは、ショックを受けた。彼らのムードに大きな変化は見られなかったが、緊張感を持っていることは、彼らの表情から伺えた。」

しかし、彼は付け加えた。甲子園で「人々から声援される高揚感は、味わった者でないとわからない気持ちである。」

東北高校側の準備に対する便宜を図り、主催者は大会6日目に、東北高校の初戦を移動した。チームは、開会式でグラウンドを行進した際、一段と大きな拍手を受けたが、1回戦で7-0で敗退した。

甲子園大会に相当するものは、米国にはないが、似たようなものとしては、NCAANational Collegiate Athletic Association)が挙げられる。大学バスケットボールのトーナメントである。しかし、そのイベントは、もっと商業的で、多くの都市で開催される。

日本の夏の甲子園大会は、1915年に始まった。プロ野球リーグが結成される20年前のことである。今年は、4,000以上の高校野球部が、甲子園大会出場をかけて戦う。

福島の原子力災害による電力の全国的な不足から、主催者は、甲子園での夜間照明使用を避けたいと考えている。1回戦は午前8時に開始され、決勝戦は、正午ではなく、9:30に開始する予定である。

とにかく、選手たちは彼らのすべてを出し切るだろう。甲子園での経験は、とても感動的で、試合に負けると、くやし涙で自分の顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼らは、バッグにに球場の土をすくい持ち帰る。

伝説は、そこにも生まれている。1998年には、現在レッドソックスの松坂大輔は、準々決勝で17回に渡る完全試合を投げ抜いた。その2試合後、彼はチームの優勝をかけて、無安打試合を成し遂げた。

日本人は、ひとつの目的に向かって1年中練習し、ほとんどの人々の心にある、汚されてされていない純粋さを持っている選手たちが出場する、甲子園大会が大好きだ。選手たちは、市民の模範のように行動すべきと考えられている。高校野球連盟は、選手が盗みや、喫煙、いじめでつかまった場合には、出場権を与えないことにしている。

ある意味で、日本の高校野球は、教師が軍隊のような規律とともに教えた過去の時代を呼び起こす。東北高校野球部は、このやり方の典型である。選手は、午後230分から午後7時まで、毎日練習。夕食後、彼らは自発的なトレーニングを続ける。唯一の休暇は、年末年始期間中だけである。

負傷した選手たちは、編成を組んだ4方向へランニングをしながら、グラウンドを整備する。センターフィールドのスコアボードには、この言葉がある。「規律なくして、実行なし」

選手たちはグラウンドに入る前に一礼し、チームの初代監督の銅像の前で一礼する。銅像の土台の両側には「甲子園で行進果たす」という言葉が彫られ、併せて、甲子園大会出場を果たした年が記されている。

選手たちが、3月、甲子園から戻った後、彼らは、毎日、数時間かけて、津波の被害を受けた石巻市に通い、雪の中を、瓦礫を運び、道路や家屋の清掃をし、食べ物を配った。

コミュニティサービスは、選手たちに、石巻の人たちがどのような経験をしていたのかを説明した。それには、イトウユウスケさん、15歳も含まれていた。彼は、同じチームメイトで、石巻市の自宅の二階が津波でさらわれた。

彼に残されたものは携帯電話だけで、彼が4月に東北高校に入るまで、避難所で暮らしていた。イトウさんは、仙台への転居はとても不安だったと言った。しかし、練習と厳格な規則にも馴れて、チームメイトとのキャッチボールだけはうれしい気晴らしとなっている。

彼は言う。私にとって、最も重要なことは、「野球部の先輩たちが、私を励ましてくれ、全精力を傾けて私を支援してくれる。」ことである。 
(終)

(記事寄稿:オオサワハルミ、スズキカンタロウ)


2011年7月16日土曜日

ストレス、うつの治療を避ける韓国人(韓国では、毎日30人以上が自殺)

The New York Times 英語原文はこちら
By MARK McDONALD
201176
発信地:ソウル

韓国が、過労、過度のストレスや不安で、国の神経衰弱の危機に瀕しているかのように感じられることがある。理由は、上昇する離婚率、学歴圧力によって窒息感を感じる学生、世界で最高の自殺率、仕事の後の意識を失うほどの飲酒を奨励する男っぽい企業文化である。

韓国では、毎日、30人以上が自殺で亡くなっている。エンターテイナー、政治家、スポーツ選手、ビジネスリーダーの自殺は、かなり一般的になっている。最近起きた、韓国有数の大学の学生4人と教授の自殺は国民に衝撃を与えた。ここ数週間のうちに、野球アナウンサー、2人のプロサッカー選手、学長、そして人気の少年バンドの元リードシンガーの自殺が起きている。

韓国人は、まだ、自身に起きている不安、うつ、ストレスのための西洋心理療法に抵抗している。スマートフォンからインターネットそして美容整形に至るまで、執拗なまでに西洋の技術革新を取り入れているにもかかわらず。精神科医との会話療法、心理学者、その他の訓練を受けたカウンセラーらが、ようやくゆっくりと受け入れられてきている。メンタルヘルスの専門家の話によるものである。

「感情的な問題について率直に表現することは、まだまだタブーである。」とキムヒョンスー博士、心理学者であり、光州にある朝鮮大学の教授は言う。

「うつ病において、韓国人は、それを我慢し、それを乗り越えようとする。」彼は言う。「精神分析医に行けば、彼らの残りの人生に烙印を押されることになる、と考えている。だから、彼らは行かない。」

メンタルヘルスの専門家は言う。多くの問題を抱えた韓国人は、個人の精神科診療所(料金は現金支払)に助けを求める。彼らの保険の記録に、政府の「コードF」の汚名が載らないようにするためである。「コードF」とは精神的なケアのための払い戻しを受けている人を意味する。

韓国人がカウンセリングを求める場合でも、学習曲線が急勾配になる。

著名な精神科医で、ソウルで開業している、ジンセンパーク博士は言う。新しい患者が、診察に来て、40分間、症状について対話し、請求書を見てびっくりすることは珍しいことではない。

「彼らは、言うでしょう。『こんなにかかるんですか?』ちょっと話をしただけで?私の友人や私の牧師とでも、同じようにできる。それもただで。」パーク博士は言う。

患者は、会話療法のより多くのセッションのためにお金を費やそうとはしない。その代わり、ただ、薬を求め、それに期待する患者がほとんどである、とパーク博士は言う。彼のウェブサイトには書かれている。「ほぼすべての薬は、米国で使用されているものですが、ここでも、入手可能です。だから、韓国でそれらの薬を入手することに何の心配も要りません。」

カウンセリングに来るのは、彼の患者の約3分の1だけで、パーク博士によると、残りの患者は、薬に依存していると言う。

「韓国人は、欧米の心理療法に慣れてきてはいるが、これは高度な教育を受けた西洋文化に精通する人々に限られている。」オオキョンジャ博士、ハーバード大学で訓練を受け、ソウル延世(ヨンセ)大学の臨床心理学の教授は、言う。

一方、韓国の自殺率は、驚くほどの数字で、米国に比べて約3倍近くにのぼっている。自殺率は、この10年、1999年と2009年の間に倍増している。オンラインで会う見知らぬ人たちとの自殺協定は、増加している現象である。農薬を飲んだり、首を吊ったり、高層ビルからの飛び降りによる自殺が、最も一般的である。

「我々は、うつ病の急増を見ているが、自殺の8090%はうつ病が産み出していると言えるだろう。」キム博士は言う。政府の精神健康クリニックが、基本的な家族や夫婦間の問題の解決​に効果を発揮していることを示す。「しかし、彼らはうつ病ではない。」と彼は言う。

「この問題は、まだまだ非常に閉鎖的です。我々は、まだそれを隠している。」

韓国社会は、伝統的に、仏教と儒教の信仰によって支えられ、勤勉、禁欲主義、慎み深さに強調されている。個々の関心は、二次的なものと考えている。尊厳や「面目」を維持することは、特に家族のために、非常に重要である。

韓国の精神的な不安感を、伝統的な価値観の衰退と近代的な工業大国として国の台頭が原因だと言う専門家もあり、これは80年代以降に始まった。韓国は、悲惨な北朝鮮以上に貧しい時もあったが、今や世界13位の経済大国を誇っている。

「社会が、物質主義に向かうにつれ、人々は自分自身を比較し始めた。」パーク博士は言う。「今では、多くの競争が子供時代から始まり、人生の目標が変わる。ある諺がある。『いとこが土地を買ったら、他のいとこは腹痛になる。』」

儒教の信仰も衰退しつつある中で、韓国人は、都市生活の喧騒のストレスを発散するため、さまざまな方法を使う。処方薬がなければ。コンサルティングシャーマン、ゴルフやハイキングなどの屋外運動、アルコール、組織化された宗教、インターネット、そして旅行が、現在の一般的なはけ口である。

治療技術関係大臣の講師も務めているパーク博士は言う。キリスト教の牧師によるカウンセリングは、一部の患者にとっては一助になるであろう。しかし、これがプロの治療の代わりにはならないと警告した。「牧師は、患者自身を治療しようとする。」彼は言う。「そして、これはさらに深刻で危険な合併症や、死に至る可能性もある。」

シャーマンに相談することは、多くの韓国人の間ではまだ一般的で、たいてい、うつ病、奇病、不運続きとともに伝わっているからである。確かに、近年、シャーマニズムは、韓国で復活してきており、クライアントに仕えるシャーマンは30万人にものぼると推定されている。

ムダングとして知られているシャーマンの多くは、昨今、とても洗練されたウェブサイトを持ち(オンライン占いを備えている)、彼らは、鶏を絞めし続け、かみそりの刃の上を裸足で歩き、その霊が樹木、煙突、森林の生き物に宿っている死んだ親戚と心を通わす。

「韓国人たちは、精神科医よりも占い師を当てにしている。」ユンダエヒュン博士は言う。彼は、ソウル国立大学病院で精神科医であり、自殺防止協会の関係者でもある。「我々の最大のライバルは、占い師とルームサロンである。彼らは、確かに私達よりももっとお金を稼いでいる。」

ルームサロンは、酒好きのビジネスマンが頻繁に利用する、仕事帰りのクラブである。お客は、夜な夜な、高価な飲み物のしつこく勧めながらそれらの問題に耳を傾ける個人的なホステスの群れを選ぶ。

ユージョングさんは、デイリーモーションの占い師である。デイリーモーションとは、コーヒーを購入すると15分間占いするシステムのソウルにあるカフェである(無料のワッフルが付いてくる)。

「精神科医は、患者を患者として治療するので、皆は、医者に対し、すべてを話さない。」と彼女は言う。「若い人たちは、ここに来て私にすべてを話す。両親にも言えないようなことでも。」

韓国の若い人々は、確かに幸せではない。しかも慢性的で、幼い段階から始まる猛烈な学歴圧力も、原因の一部になっている。ここ最近の調査では、韓国の若者が、 経済協力開発国機構(OECD)の中で最も不幸な若者であることが発表された。3年連続 である。

ユーさんは言う。彼女は、1日あたり約50人の相手をする。通常は、恋愛、結婚や転職のアドバイスを求めているカップルや友人の小グループである。

「韓国人は、自分自身用の『パッケージ』、独自の救済セットを見つけようとして、もちろん、とても真剣にやっている。」オー博士、延世大学教授は言う。「彼らは、ストレスから逃れるために、必死にやるべきことを探している。彼らには、ただ、いい模範がいないんだ。」

(記事寄稿:スーヒュンリー)


2011年7月14日木曜日

ただ野球を続けたかった福島の球児たち

By KEN BELSON 
2011712
発信地:小野町(福島県)、日本

3月に、地震と津波が日本の東北地方を襲った時、海岸線を行ったり来たりしていた高校野球のチームは、突然、練習する場所を失った。福島で深刻な打撃を受けた原子力発電所に近い学校も例外ではなかった。放射線レベルがとても危険で、周辺の学校は放棄され、野球部員たちは、全国の市や町に避難した。

しかし、誰も、毎年大阪で開催される恒例の、夏の甲子園大会に出場するチャンスを逃したくはなかった。甲子園大会は、日本全国各地からの高校球児たちが全国優勝をめざす大会である。彼らの夢を叶えるため、異郷生活を余儀なくされた3つの高校は、暫定的に野球部を合併した。しかし、皆の場所はばらばらであった。

そして、彼らは、ある最近の土曜日にそこにいた。相双連合の野球部。帽子を取って、通常の野球部員のように守備練習を行った。しかし、彼らではない。富岡高校、相馬農業高校、双葉翔陽高校からの中には、家族、友人、家を失った学生もいる。襲われた原子炉近くの町は、数年間、立ち入り禁止となるかもしれない。友達と一緒の卒業も果たせず、ほとんどの学生は、新しい場所での異郷生活を送っている。

混乱の中でも、彼らは、野球で落ち着きを取り戻していた。

「野球部員たちは、彼ら自身を悲観はしていない。」サンペイノリユキさん、相馬農業高校からのコーチは、ダブルヘッダーの最初の試合前に言った。「彼らは、ただ、今まさに、何ができるかという現実をわかっている。きちっとしたことを、できる限りやろうとしている。」

彼らは、心温まる物語を欲する日本中で、希望の象徴となっている。彼らの生活と連合チームは、強烈に、ニュースメディアの関心の焦点となっている。彼らに起こってきたすべてと、日本人が野球選手や一般の選手たちに対し大切にする、無私無欲と揺るぎない献身ぶりを示し続け、選手たちは賞賛されている。

現在、選手たちが県内各地に散在していることや、各週末の1日にしか、一緒に練習することができないことで、彼らの話は、さらに魅力的になっている。中には一緒に野球をしたことがない選手もいる。しかし、すでにしっかりした友人になっているように見える。彼らの明白な問題は、見当違いである。多くの暴投や内野手がトンネルするゴロのように。

もちろん、日本の東北地方各地の学生らは、津波や原子力被害の影響を受けている。地震が311日午後246分に起きた時、多くの選手は野球の練習していて、ユニフォーム姿のまま避難した。陸前高田市の選手たちは、自分の学校を巻き込んだうねり寄せる波を逃れ、より高いところの広場へ避難した。愛する人や家庭を失った選手や、避難所暮らしの選手たちがいるチームがほとんどである。

しかし、相双連合チームを取り巻くこの状況は、全国的な注目を浴びている。ヤノツカサさん、彼は、高知県で同じように2つの高校の合併から作られた野球部の監督で、日本のリグレーフィールドと言われる甲子園球場の有名なツタから取った苗木を、相双連合チームに送った。

それでも、相双連合チームの形成は簡単ではなかった。3つのチームの統合のため、着用するユニフォームはどうする、応援歌はどうする、誰がチームを率いるのか、といった問題があった。選手らは、自分の制服を着用し、学校の位置する相双沿岸地区を意味する2つの文字を載せた同じ青い帽子を着用した。ハットリヨシヒロさん、双葉翔陽高校の監督で、このチームを率いる。チームの17名のうち14名は同高校の選手である。

学生を保護するために、福島高校野球協会は、地域大会で使用される各球場で5カ所ずつ、毎日、放射線のレベルをチェックを行う。放射線レベルが1時間あたり3.8マイクロシーベルト超える場合、その競技場でのその日の試合は延期される。雨の遅延の際には、放射線レベルが再確認が必要となり、球場を維持する係員は、ゴム手袋を着用しなければならない。

最も複雑な事情が、選手たちを巻き込んだ。子供の頃から、彼らは、家庭や学校ではなく、野球場で自分の時間のほとんどを費やしてきている。参加したいという衝動にもかかわらず、選手の中には、昔のチームメイトが果たせなかった夢に、自分たちが挑戦するということに罪悪感を抱く選手もいた。

ナカムラトモコさんは、このことを、じかに知っている。3月の災害の後、彼女の息子のコウヘイは、野球をする望みをすべてあきらめていた。富岡高等学校での彼のチームメイト、この学校は損傷した原子炉から約6マイル(10km)の距離であるが、別の学校に転校したり、野球を止めたりしていた。

彼女が野球のことを持ち出すたびに、コウヘイは彼女に向かって叫んだ。「もう、野球はしない。チームがないから希望もない。」息子のチームが、初の練習試合で、5-2で高萩清松高校に負けたことを、彼女は思い出す。

そして、コウヘイの監督であった、サカモトシュウジさんは、他の学校からのメンバーで作られているこの新しいチームに参加するよう、コウヘイを誘う電話をよこした。コウヘイは、このチャンスに飛びついた。「3月と4月の間、コウヘイは心配していた。だが、相双連合チームに参加してみると、不安は減った。」そして「モチベーションも高い。」サカモトさんは言う。

コウヘイは、現在、週末に70マイル(約110km)を練習のために通う。富岡から唯一のメンバーである彼は、ショートとバットのクリーンアップから始める。

「新しいチームメイトと一緒にいることに慣れてきた。野球ができて、本当に嬉しい。」コウヘイは言う。「最初は、他の学校の違った練習メニューで混乱したが、もう慣れた。」

時間は短い。6月下旬、チーム初の練習試合が、雨で中止になったので、この水曜日に始まる地域大会までに、コウヘイと彼のチームメイトには、2回の週末しか残されていなかった。守備の練習中に、ハットリ監督は、ゴロを撃ち放ち、野球のコーチや海辺の町の住民に共通する荒い方言でどなりながら、指示を出していた。

彼は、選手たちが住み慣れたところから立ち退かされていることを知っているが、彼は、明らかに、愛のむちを与えていた。最初のゲームの8回裏、相双連合チームは挽回を仕掛けていた。2アウトながら2人のランナーがいる。すでに2つのヒットを打っているナカムラが、バッターだ。キャッチャーがボールをそらし、マツモトヒロユキは三塁からホームをねらった。ボールは遠くへ転がらず、彼は簡単にタッチアウトとなってしまった。

「この馬鹿!」ハットリ監督は、新入社員に対する鬼軍曹のようにどなった。「クリーンナップが打席にいるって、判っていただろう?」

マツモトの父、ゼンイチロウも、同意してうなずいていた。それでも、彼は、息子が野球をするチャンスを得て、喜んでいた。津波の後、ヒロユキは、三春の避難所にいた。35マイル(56km)西である。一方、彼の両親はいわき市にいた。南へ35マイル(56km)である。

誰かが彼の息子がテレビに出ていたことを、マツモトゼンイチロウさんに伝え、その2週間後、彼らは会った。彼らは、今、一緒にいる。しかし、彼らの家は、津波で流され、「アメリカに向かう途中にある。」父はジョークを言った。落ち着かない新しい環境の中でも、ヒロユキは、球場では別人である。野球で、「彼がもっと精力的になることを願う。」マツモトゼンイチロウさんは言う。

チームのキャッチャー、エンドウタケシは、50マイル内陸の郡山に転居する必要があったにもかかわらず、野球をすることを熱望したひとりである。彼は、いとこを継いでキャプテンとなった。そのいとこは、津波までは、双葉翔陽チームを率いていたが、東京に転居した。土曜日の練習日の前夜、タケシの父、キヨテルさんは、息子の頭を剃り、自分の熱意を示したがる選手がしたがる坊主頭にした。

「上級生として、そろそろ勉強について考えるころだ。エンドウキヨテルさんは言う。「しかし、大会の初戦までは、彼は、野球のことしか目に入らない。」

(記事寄稿:オオサワハルミ、スズキカンタロウ)


2011年7月13日水曜日

災害後のグーグルの迅速な行動、同社信頼獲得に寄与

By HIROKO TABUCHI 
2011710
発信地:気仙沼、日本

先週、奇妙なものを装着した車が、津波で被災した港湾市街地のがれきの中を通っていた。屋根の上には、被害状況を記録するため、災害地域の360度パノラマのデジタル画像を作成する、9台のカメラが組み立てられいた。

これは、グーグル技術を生かす最新方法のひとつである。グーグルは、世界的なウェブサイト検索王であるが、日本ではオンライン市場においてまだ2番手のまま、その日本で、この最新技術は、ブランドとソーシャルネットワーキングの認知度を高めるためのものである。

グーグルは、災害の初期の段階で、迅速に、地震と津波によって影響を受けた友人や親戚の状況が、人々にわかるように、人探しのサイトを立ち上げた。

批評家らは、震災以来のグーグルの取り組みが、検索エンジンやオンライン広告のシェア拡大に、反映されているかどうかを判断するのは時期尚早であると言う。しかし、米国に次ぐ、世界第2位のオンライン広告市場を持つ国で、かつては会社がプライバシーの問題を提起する重大な失策もあったが、日本でのトップであるヤフーの地位を奪おうとしながら、ついに、グーグルは新しい信頼を勝ち取っている。

「私たちは、グーグルの人々に何も心配はないと思っている。」スガワラシゲル氏、津波によって破壊された東北地方の気仙沼市長は言う。

「私は、彼らに今の気仙沼の街を記録に残してほしい。」スガワラ氏は言う。「そして、彼らに戻ってきてほしい。街が新しく生まれ変わってから、世界に新しい気仙沼を披露してほしい。」

改心者がもうひとり、コバヤシサチコさん。彼女は、仙台に住んでいる。津波被害の中心となった都市である。彼女は、友達を探しに気仙沼市を訪れた。友達は、琴の仲間の学生である。琴は日本の伝統楽器である。コバヤシさんは、別のWebサイト上で人探しを投稿すると、見知らぬ人に、グーグルの人探しサイトを教えられた。そして、彼女は、その友人が無事であることを知った。

「ありがとう!」コバヤシさんはお礼を投稿した。「また、一緒に練習できることを心待ちにしています。」

311日、日本の北東沖を襲ったマグニチュード9.0の地震は、26階にある日本のグーグル東京オフィスをも襲っている。エンジニアらは、通常のプロジェクトを中断、数分以内に、従業員は小グループに分かれ、様々な災害関連サービスに取り組み始めた。これらは、日本で初めて行われた災害関連サービスである。

人探しサイトは、もともと20101月に起きたハイチでの地震の際に開発されたものである。日本では、地震発生から2時間以内に、グーグルがオンラインの人探しサービスの稼動を開始した。

「誰もが自分のノートパソコンで、何ができるかというアイデアを考え始めた。」ブラッドエリスさん、初期対応に取り組んだ東京チームのアメリカ人メンバーは言う。

あるエンジニアは、人探しサイトを従来の日本の携帯電話と互換性を持たせるアイデアを提起した。もう一つは、グーグルマップで、交通や道路の損傷に関するデータだけでなく、電車の運休状況や遅延といった情報を視覚的に表示することを提案した。これらのアイデアは、すべて実用化された。

人探しサイトでは、行方不明者に関する情報を持つ利用者は、他の利用者が検索できるデータを作成することができる。逆に、行方不明者を探している人は、その人の情報を持っている誰かがそれを見て、その人に関する追加情報が投稿されることを期待してデータを作成することができる。

どれだけ人々が、人探しサイト上で大切な人に関する情報を見つけてきたのかを単に測定することは、難しい。ただ、明らかな欠点としては、数百の避難所にはインターネットへのアクセスがなく、被害者らは自分の居場所をウェブサイト上に入力する手段がなかったことが挙げられる。

その代りに、行方不明者に関する情報のほとんどは、避難所での手書きのポスターとなっていた。そこで、グーグルは、利用者に対して、ポスターの写真を撮りピカサのオンライン写真共有サービス上にアップロードするように依頼し始めた。グーグルは、それらの写真の名前を人探しサイトに転写する作業のため、約100名の営業チームを設置した。

すぐに、約1,000枚にものぼる名前の写真がピカサにアップロードされ、グーグル社員の作業は追いつかなかった。そして、グーグルは予想していなかったのだが、匿名利用者らによる写真の名前を人探しサイトへの転写が、ピカサのインタラクティブ機能を利用して、自発的に始まったのである。津波後の数週間で、10,000枚を超える写真は、約5,000名の匿名のボランティアによって転写され、人探しサイトに14万人以上のデータが追加された。

グーグルはまた、地方自治体やその他の組織に対して、行方不明者の情報を彼らのデータと共有させることを促した。日本におけるグーグルの知名度が低水準だったので、ムライセツト氏、彼はグーグル社員であり会社のパートナーシップを担当するが、地元当局者にアプローチするには、このような事例の基礎からスタートしなければならなかった。

「私は、グーグルというインターネット会社から参りました。」なんでインターネット会社が?と困惑する職員への挨拶から始まった。「あなたがたに協力させて下さい。」

職員は、いったい何を期待をすればいいのかよくわからなかった。日本の政府機関は、いつも、プライバシー問題を懸念し、そしてご存知の通り対応が遅い。しかし、この時ばかりは反応が迅速だった。津波の被害を受けたすべての都道府県では、そのリストを共有することに合意した。

ひとつずつ、人と組織が情報を供給し合った。公共放送機関、NHK、主要新聞社、さらには通常は世間とはかけ離れた警察庁まで。

全体として、人探しサイトは616,300件の記録を収集し、災害による行方不明者の日本最大級のデータベースとなっている。これは、グーグルがハイチで回収した55,000件をはるかに上回る。

「誰もが災害の恐ろしさを感じていた。」ムライさんは言う。

グーグルにとって、これらの努力は、日本での評判を向上させるために役立っている。

グーグルは、日本での設立以来10年以上が経ち、オンラインサービス、モバイル技術、そして広告の巨大な市場に引き寄せられた。日本におけるインターネット広告市場は、2010年に、7747千万円(約96億ドル)に達した。この数字は、広告代理店、電通によるものである。日本は、インターネット対応の3G携帯電話において、99万人の利用者を持ち、これもまた米国に次ぐ数字である、

しかし、日本は、グーグルの受け入れについて乗り気ではなかった。12月末時点で、ヤフー・ジャパン、これは日本の通信業界最大手ソフトバンクが運営するが、すべての検索ページビューの50.4%を占めた。comScore Media Metrixの数字によるものである。グーグルは39.6パーセントで、2番手となった。

グーグルは、最初に、文化的な失策をしたのである。グーグルマップのストリートビュー機能は、グーグルマップのウェブサイトにパノラマ写真を追加したものだが、プラ​​イバシー意識の高い日本人には気に食わず、グーグルは控えめなカメラを使ってそのイメージデータを撮り直すことを余儀なくされた。

グーグルは、昨年、日本での技術的な勝利を獲得した。ヤフー・ジャパンが、グーグルの検索技術に切り替えることを決めたのだ。米国ヤフーは、ヤフージャパンの約3分の1を所有しているが、マイクロソフトのBingの技術を使用し始めると発表している。しかし、アナリストらは、日本におけるグーグルの足場は、まだ不安定なままだと言う。日本では検索において最も強力なネームバリューを持つヤフージャパンが、簡単に技術の切り替え先を、再度、変更する可能性があるためである。

3月の災害は、グーグルにとっては、前向きな光の中でその技術を発揮するチャンスを与えられた、とグーグル幹部は言う。

カワイケイ氏、グーグル本社(カリフォルニア州マウンテンビュー)のシニアプロダクトマネージャーは、その3月の金曜日、自宅でくつろいでいるところに、巨大な地震が、彼の実家である仙台を襲ったことを知った。

必死になって、彼はニュースのウェブサイトとツイッターを飛び回り、津波がどの程度到達したのかを調べようとした。しかし、彼の両親が住む場所のリアルタイムの情報を探し出すことは、ほとんど不可能だったと、彼は言った。

そこで、彼は、更新された衛星写真を提供し、人々に津波の経路と到達範囲を追跡できるようにするプロジェクトに身を投じた。写真の品質と細かさを向上するために、グーグルは、後になって、低高度空中撮影を依頼した。これは、オンラインで公開されている。

「私は、自分自身で、グーグルで何ができるかを考えた。」カワイ氏は言う。「我々は、さまざまな方法で情報を利用可能にできるし、パーソナライズできる情報を作れるし、そしてあなた自身を作ることができる。」

今、カワイ氏は、新しいプロジェクトを率いている。津波の被災地域の360度のパノラマ写真を、定期的に記録に残すものである。このプロジェクトには、グーグルのストリートビューの技術が生かされている。

このプロジェクトは、先週、カメラを積んだ車が気仙沼の街を往復していたもので、被害状況貴重な記録と今回の災害地域を記録提供すること、そして再建の進行状況を記録することを目指している。海岸沿いの町や市は、この尽力に対しすでに承認を出している。以前のストリートビューとグーグルの問題にもかかわらず。

ハヤシノブユキ氏、彼は長年、情報技術のコンサルタントでジャーナリストであるが、グーグルは今回、そのよそ者のイメージを払拭できるかもしれないと言う。


「普通の日本人たちが、突然、グーグル検索を使い始めようとするかどうかは、私にはわからない。ただ、グーグルのサービスには、災害地域の人々のためのライフラインになりつつあるものがある。」ハヤシ氏は言う。「もし、これらのサービスが、地域の復興に貢献することができれば、グーグルの日本での存在価値は強化される。」

災​​害後数日してから、カワイ氏はやっと両親の安否が確認できた。仙台の家は、かろうじて津波から生き延びた。

彼の両親は、結局、近隣の山形県に車で避難することとなった。なじみのない山道を通りながら。グーグルマップを使って、無事に辿り着いたそうである。(終)

2011年7月12日火曜日

高い障害を設定する、日本の司法試験

The International Herald Tribune (英語原文はこちら)
By MIKI TANIKAWA
2011710
発信地:東京

オオツカカズヒサさん、31歳は、2年前に横浜でロースクール(以下、法科大学院とする)を卒業した。しかし、彼は、今年初めて司法試験を受ける予定である。

彼は、テストの準備をする前に、簡単に司法試験を受けたくはなかった。彼は、桐蔭横浜大学の法科大学院で、3年間の大学院を卒業してから、彼は朝の9時から、ほとんど休憩なく深夜まで、猛烈に勉強の日課をこなしている。

「私は、ずっとこうして勉強してきた。」と、彼は言う。「そして、週末も変わらない。」

彼が、試験を待って勉強するのは、今回の司法試験が非常に挑戦的な性質を反映しているからだ。2004年に発効された日本の法科大学院のためのシステムには、新しい司法試験要項が含まれ、試験を受験できるのは3回までと限られており、オオツカ氏は、試験に挑戦する前に十分な準備ができているようにしたいと考えている。この改革の前には、司法試験を受けるための回数制限はなかった。

「私は、私の故郷である前橋に戻って、弁護士として働きたい。」と、彼は言う。彼の父は、長い間、地元の弁護士である。

オオツカさんだけでなく、他の何千人もの人々が、司法試験を受けるために、準備に長い時間を費やしている。昨年、司法試験合格者は、受験者の25%であるたったの2074人で、2006年に新試験を取り入れて以来、最も低い合格率であった。

合格率は、改革前の2%〜3%よりははるかに高いが、法科大学院のシステムにより、法律を学ぶ学生たちの新しいグループが作られ、学校には数年間、授業料のために数百万円を支払いながら、司法試験では失敗している。

この低い合格率に対し、法学部大学院の新しい卒業生らは一種の危機感を抱いていた。それは、2004年にシステムの変更後に生じたものである。その変更がめざしたのは、とりわけ認識されてきた弁護士不足を緩和するために、多くの弁護士を生み出すことで、特に地方都市での問題である。しかし、法科大学院への新入生の数は、最近減少している。

74の法科大学院のうち、2校は2010年に合格者がなかった。1つの学校は閉鎖され、他の学校は学生の受け入れ数の再編成又は削減を行った。今年、法科大学院は全国で3620人の学生を受け入れたが、ピークであった2006年の5800人から減少している。

「多くの学校がありすぎるのは、皆、わかっている。」ナカヤマコウジ氏は言う。彼は、日本法科大学院協会副事務局長であり東京の明治大学法学部教授である。「法科大学院それぞれは、自主的な方法で定員を削減している。」

認定の甘い基準のために、あまりにも多くの大学が制度改革後のどさくさに法科大学院を設立することを許可されたと言う評論家もいる。

「大学は、教育の新たな分野を広げる方法を探していた。というのは、減り続ける若い人口構成は、大学プログラムにとって深刻な問題であるからである。」ある法務省の高官は話す。彼はメディアに話をすることを許可されていないので、匿名を主張した。「また、法学部を持つ大学は、法科大学院を設定せざるを得ないと感じていた。また、法科大学院としての存在していないと、生き残ることできないと考えた。」

司法試験を管理する省庁は、特定の批判に対しての反論は行わず、省の見解は、www.moj.go.jp/Webサイトに掲載されている新しい試験に関する公式文書に詳述されていると言及するだけであった。

新しい学校の認定を担当している文部科学省は、非難を浴び、ずさん過ぎると糾弾されている。

法科大学院の教授や学生の多くは、問題の本筋は、多過ぎる学校が存在していることではなく、司法試験に合格することが非常に難しすぎることである、と言う。

ゴトウアキラ氏、東京の一橋大学法科大学院における刑法の教授は、司法試験問題はあまりにも高度で複雑すぎると言う。

「私は、刑法の専門家なので、刑法のテスト部分と憲法関連のいくつかは答えられるであろう。」と彼は言う。「しかし、もし私が今、法科大学院の学生として、数年の間、司法試験に必要とされる他の法律を学んだとしても、合格できるかどうかは、私自身わからない。」

彼の学校は、司法試験のトップクラスの合格率を維持していることで知られているが、それでも、昨年は、卒業生の50%しか合格しなかった。

ダン・ローゼン氏、彼は、東京の中央大学大学院でアメリカの法律を教えているが、司法試験の難易度と同じように、テストの主旨に戸惑っている、と話す。日本の司法試験、特に、第一段階の法律知識に関する厳しい多肢選択式テストでは、良い弁護士になれるかもしれない人々がふるいにかけられている、と彼は言う。

「このテストで報われるのは、数年間勉強机に座って、あなたの鼻と法律書のページの間で行われる本の学習のようなものだけである。」と彼は言う。「日本には、本の学習と暗記に対して偉大な信念がある。司法試験では、かなり大きな範囲でそれが反映されている。」

法科大学院の教師や管理者は、低い合格率のために、政府によって設立された司法改革の目的をくじいている、と言う。その改革は、10年前に始まったものである。2001年、日本の法律と司法制度を再設計するための青写真は、政府の諮問機関が作成したもので、改革派首相であった小泉純一郎の内閣で採択されたものである。それは、2010年を目処に、毎年3000人の弁護士を生み出す目標で、司法試験をライセンステストに作り直すことを目的とした。その報告書は、法律の専門家が起草したもので、医学、ビジネス、テクノロジー、外国語のライセンスや知識を持つ人々のように、より多様な背景を持つ人々を受け入れるための新しい司法システムと呼ばれ、より成熟化、多様化、複雑化した社会のニーズを満たすためのものであった。

以前のシステムでは、毎年の司法試験に合格することができたのは、わずか1,000人だけであった。以前は、法科大学院はなく、大学法学部があっただけで、弁護士を養成することを意図するものではなかった。そのため、弁護士になりたい学生は、競争力の高いテストに合格するまで、通常は数年を費やし、受験者を多様化させないような条件下で、自分自身で勉強しなければならなかった。新システムは、大学院のプログラムとして弁護士の訓練を想定し、米国と同じように、学校入学者のほとんどが最後に司法試験に合格できるものであった。

そのため、受験者の6070%が合格できるという公式目標を掲げた新しいシステムが2004​​年に登場し、自分のキャリアの経験に法律の勉強を組み合わせることを望む、一般の受験者、医師、ビジネスマン、その他の専門家たちが法科大学院に入った。

法学教授らは、法科大学院制度が始まった当初は、すべてのクラスに医師が1人は含まれ、30代以上の人ばかりだったと言う。

「しかし、すべてのそれらの人々は、今、ほとんどいなくなっている。」フィリップ・オステン氏、彼はドイツ人弁護士と慶應義塾大学法学部教授で、彼のクラスに在籍していた医師は、司法試験に3回失敗したと言った。「人々が、自分のキャリアを維持しながら、法科大学院に挑戦したり、法科大学院で学んだりすることは、リスクがありすぎて不可能である。もう、誰もやってみようとは思わない。」

「今の学生のほとんどは、大学法学部からそのまま来ている。」彼は言う。

学生と教授たちは、政府と法制度を改革するという約束に裏切られたと言った。

「彼らは、受験者の6070%を合格させるという約束を破った。私は、これは国が犯した大きな詐欺だと思う。」オステン氏は語る。「ドイツだったら、これは訴訟ざたになっているところだろう。」

司法試験は、弁護士、裁判官、検察官や法科大学院の教授委員会と、法務省の深い関与によって運営されている。

法学大学院の教師や生徒の間では、新しいシステムになると、あまりにも多くの弁護士を市場に氾濫することを恐れて、弁護士らが司法試験の合格人数を制限するように法務省に圧力をかけている、と言う。

「法律サービスの市場が、政府によって管理、制御されるべきあるという信念があるように思われる。」オステン氏は言う。「これでは、専門職としての真の自由はない。」

匿名を条件に、取材に応じた法務省の関係者は、受験合格者の数に対して、任意の制限はないと否定した。「多くの受験者は、合格にふさわしいレベルにははるかに達していない。」と、その法務省関係者は言う。

法務省は、公式コメントを避けた。

モリヤマフミアキ氏、彼は名古屋に拠点を置く弁護士で、日本弁護士連合会における法制度委員会の副会長として働いているが、弁護士の団体からそのような圧力はない、と否定した。

「それは、絶対に嘘だ。」と彼は言う。新制度の下で輩出される弁護士らは、スキル面においてはかなり物足りない、と彼は言う。司法試験合格後の研修の一環として、日本の最高裁判所によって行われるテストの結果を知り、彼は言う。「我々は、司法試験を合格した研修生が行う回答レベルに愕然としている。これは、その一例である。」

しかし、カバシマヒロユキ氏、彼は東京の弁護士で日本弁護士連合会でも働いているが、多くの弁護士が弁護士倫理だけでなく、法律サービス市場を弱体化していると心配する、と言う。

「完全就業状態ではない弁護士が、ヤミ金融での作業など非倫理的な任務に就いている事例が増加している。」と彼は言う。

韓国では、同様の制度移行を進めているが、韓国政府は、日本の新しい法科大学院で起こった問題を見て、日本ほど自由ではなかった司法制度の改革を制定した。

2009年に韓国で発表された法科大学院のプログラムでは、韓国政府は認定校の数を25校に制限し、年間の学生の総数を2000人に制限した。法科大学院は、2009年に開始し、最初のクラスは、来年卒業する予定である。学生の約75%が、司法試験に合格するものと見込まれている。

韓国のやり方を批評する人には、入学者数を制限すべきではなく、もっとアメリカのやり方を目指す必要があるのではないか、と言う人もある。

「韓国では、司法試験に合格する競争が、単に法科大学院に入るための競争に置き換えられているだけである。」キョンシンパーク氏、ソウルの韓国大学法学部教授は語る。「このような制限があってはならない。」

(終)

2011年7月3日日曜日

日本の原子力の将来を担う知事の力

By MARTIN FACKLER 
掲載日:201172
発信地:佐賀(日本)

弱い政治的リーダーシップに悩まされる国では、福島第一の事故の後、日本における原子力発電の将来を決定するのに役立つかもしれない重要な決定が、日本南部の県知事に曖昧に任されている。

佐賀県の古川知事は、定期的なメンテナンスのために昨年の冬以降稼働停止している地元の原子力発電所における、2基の原子炉を再稼働するという菅首相の要請を支持するかどうかを、近日中に決定する必要がある。ここで、彼が再稼働せずと決定した場合、他の知事は、佐賀県知事の方針に従い、日本のすべての原子炉は1年程度は稼働停止状態になりかねない、という警戒が膨らんでいる。

日本の原子炉は、法律により、定期的なメンテナンスのため、13ヶ月ごとにを稼働停止する必要がある。全国の54原子炉のうち35箇所は、現在、停止中である。311日の地震と津波による被害の影響のものも一部にはあるが、ほとんどは保守メンテナンスのためである。それらのうちのいくつかが稼働されないと、日本における原子炉は、来年の4月までは稼働されない。日本から電力の3分の1近い資源が奪われることになる。。

停止状態の原子炉を再稼働させるためには、中央政府の承認が必要で、福島の事故以降、承認されていない。災害が続いている原子力発電に対する国民の反発に応じて、菅政府は、地元の政治指導者に対し、再稼働をしないように求めている。

古川氏は、決定を下すことを求められている最初の知事である。このことで、彼は、日本の原子力発電の将来においてある種の先導者となり、彼の決定は、安全性と電力不足脅威の対立についての国民不安という同じ問題を抱える必要がある他の地域の指導者らによって、とても注目されている。

「私は、急に、大きな責任が私にのしかかってきたように感じている。」古川氏、52歳は、インタビューで語る。「原子炉を再稼働しないと決めることで、我々は、ドイツよりも速く、非原発国家になることができる。」2022年までに原子力発電を廃止することを決めた国について言及する。

ほとんどの知事が原子炉の再稼働について形勢を伺っているため、古川氏の動向が注目されているのである。先月、報告された毎日新聞では、原子力発電所を保有する10県の知事は、原子炉を再稼働を支持しておらず、大半が安全対策に関する更なる詳細な情報が必要だと、インタビューで話している。(同様な立場の他の2人の知事はインタビューをされなかった。)月曜日に、福島県の知事は、一歩前進し、福島県の原子力発電所に対する経済とエネルギー依存の終結を求めた。

古川氏は、公然とその判断に苦しみ、7月中旬までに意思決定したいと話している。水曜日に、彼は、中央政府の安全性の説明で満足したと述べ、佐賀県では、原子炉を再稼働する方向に動いていることを示唆した。

この佐賀県での状況から、国の原子力の将来をめぐる議論を形成しているいくつかの力を垣間見ることができる。日本では福島の事故が海外を触発したような大街頭デモはほとんど見られなかった一方で、明確に、原子力発電に対する国民の反発がある。最近の世論調査では、圧倒的多数を示し、東京新聞が先月実施した調査では82%が国の原子炉を廃止を支持している。

しかし、同じ世論調査では、ほとんどの回答者が即時停止を支持していないことも示しており、ゆっくりとした原子力発電の段階的廃止が代替案として支持されている。東京での意思決定者と同じように、ここ佐賀県の路上の会話でも、福島の事故によって公開される危険性と、輸入石炭や石油に重大なエネルギーの代替案を保持しなければならない資源の乏しい国の必要性の間で、明らかに意見が分断されている。

「原子力の安全性については深刻な不安はあるが、それを廃止するにしても深刻な不安がある。」マキハライズル氏、仙台市の東北大学での政治学者は言う。

すべての原子炉を稼働させない見通しを、経済界と国の強力な原子力団体が警戒し、原子力発電を失うと、悲惨な経済的影響が出ると警告を発している。彼らは、日本経済を震撼させるかもしれない、高い電気料金、あるいは停電の発生を警告する。

さらなる原子炉が停止することなくても、エネルギー不足が迫り来る様子の中で、金曜日に政府は昨年より15%、この夏電気使用量を削減するように、在東京の工場など大規模な電気の使用者に命じた。

「もし、すべての原子炉が停止した場合、経済への影響は甚大になるだろう。」と菅首相は先月末警告した。

日本のまだ小さな反核運動は、福島の事故以来、信頼性を獲得している。ただ、それはまだ一般には左翼団体の一部としてみなされている。活動家たちは、社会から葬り去られることへの恐怖と同様に、深刻な無関心のために、多くの日本人が行動を起こさないと、不平を言う。

「多くの人は、影から私たちをサポートしていますが、みんな過激として嫌われることを恐れている。」イシマルハツミさん、59歳、佐賀の反核グループをリードする主婦は言う。

ここでは、多くの人々は、なぜこの重要な判断が、この人口約85万人、最南端本島である九州に位置し、その主な名産は施釉陶器とおいしい牛肉、そんな地方都市の佐賀県に強いられているのかと、困惑していると言う。ある意味では、それはタイミングの問題である。玄海原子力発電所の4つの原子炉のうちの2つは、2ヶ月前に定期メンテナンスを終えてから再稼働を待っている。他の2つの原子炉は、稼働中である。

古川知事は、菅首相が今後のエネルギーの将来について明確な方向性を示さなかったために、自分が決断を下すことになることに対し不平を漏らす。これは、すでに日本全体で聞いた批判であり、そして菅首相が、重要な復興法案が成立されれば辞任することに合意している。

「菅首相は、国が行うべき意思決定から逃げている。」と、古川氏は言う。金曜日に、知事は「彼のエネルギービジョンを聞くために」菅首相との会談を要請している。

彼は、国家政府と現地ビジネスグループから迅速な意思決定をするように圧力をかけられていると、当たり散らす。しかし、彼は、原子力規制当局と工場のオペレーターである九州電力に対し、福島スタイルのメルトダウンがここで起こらないようにどのように防ぐか、という方法についての詳細な説明を繰り返し求めている。

「原子炉の再稼働を望むビジネスグループに答えることは簡単だ。」古川氏は言う。「しかし、それに反対する市民の不安は整合性がない。」

水曜日に、菅首相は、古川氏に直接安全対策を説明するよう、佐賀に海江田大臣を派遣した。先週末、原子力規制当局は、ここ佐賀県で発電所の安全上の公聴会を開催し、ケーブルテレビとオンラインで生中継された。

地方の承認を得なければならないという法的要件はないが、現在の原子力発電に対する反発のため、地元の承認なしに原子炉を稼働することは、政治的に困難であると、九州電力の職員は言う。

玄海発電所のマネージャーであるムラシママサヤス氏は、彼が九州電力の主な安全性の論点を説明するために、県や近隣市町村の会合を訪れていると言った。福島第一とは異なり、玄海の発電所は、断層線の近くに位置しておらず、記録が残っている1000年以上の間、大津波の被害には遭っていない地域である。

原発のある玄海市市長のキシモトヒデオ氏は、すでに再稼働に対する彼の受諾を通知している。彼は、大きな要因は、原発に対する玄海市の経済依存度であり、原発からの税金や補助金は、6,400人の町において、1億円の年間予算の3分の2を提供することを認めた。

「私は、ここに人々の心には、経済的な不安の方が大きくあると思う。」とキシモト氏は言う。

町の住民たちは、ここでの事故で、福島第一の近くで命じられたような避難が強制されることを恐れていると言った。しかし、彼らは、市長の方針に従うより選択の余地はないと言った。

「我々は、私たちの生活が、密接に原発に縛られていることを知っている。」ヒダカヒロヨシさんは言う。56歳、玄海で健康食品の店を営んでいる。「だから、私たちは何も言えないんです。」

(終)