2011年4月24日日曜日

ソニーを音楽・映画の世界へ主導、大賀典雄さん81歳にて死去

The New York Times (オリジナル原文はこちら)
By  THE ASSOCIATED PRESS
掲載日:2011年4月23日
発信地:東京


ある若者で意欲的なオペラ歌手だった大賀典雄さんは、当時のテープレコーダーの品質についての不満をソニーに手紙を書いた。それが彼の人生の進路を変えた。コンパクトディスクを発展させ、日本の一電気メーカーを世界のソフトウェアとエンターテインメント帝国にのし上げた、音楽を愛するその若者をソニーが採用したからだ。

1982年から1995年にかけてソニーの社長、兼会長であった大賀典雄さんは、土曜日に多臓器不全のため死去した。81歳だった。

音楽との関わりは、仕事に繋がった。華やかな音楽愛好家であり、ベートーベンの交響曲第九番の全体を収めるために、75分の価値ある音楽を保持するように、CDを現行の直径12センチ(約4.8インチ)で設計するように主張した。

当初より、CDの優れた音質の可能性を認識していた。1970年代、最終的にはCDがレコードアルバムに代わることを主張すると、懐疑論者たちはあざ笑った。ヘルベルト・フォン・カラヤン、スティービー・ワンダー、ハービー・ハンコックらは、ソニーのデジタルサウンドを支持していた。

ソニーは1982年に世界初のCDを販売し、5年後には日本でCDはLPレコードの販売を追い抜いた。当時の仕様は今でも使用され、それ以来発展的媒体として使われている。

「ソニーを、音響・映像製品を超えて音楽、映画やゲーム、そしてそれに続く世界的なエンターテインメントリーダーに進化させたのは、彼の先見性とビジョンのおかげだと言っても、過言ではない。」ソニー会長兼CEOであるハワード・ストリンガーさんは、この土曜日に日本語で敬語を使って話した。

社長時代になされた会社運営方針は、ハリウッドスタジオコロンビアピクチャーズの34億ドルでの購入など、当時は賢明ではない、高すぎる買い物だと批判されたものもある。しかし、エレクトロニクス事業を活気づけるために、音楽、映画、ビデオゲームに焦点をあてたのは、彼の時代にソニーが成功する原動力のひとつとなった。

「常に、他の企業がまだやっていないことを追いかけている。」1998年のインタビューで語っている。「それが、成功の秘訣だ。」

既成概念にとらわれた、生真面目な日本の経営者の常識を破り、陽気で決して内気にならず、髪はきちっと撫で付けられ、アーティストの激しくまた無邪気な空気を放つ騒々しい作法だった。その性格が、日本がグローバルな野心を持っていた時に、ソニーのイメージアップにも繋がった。

経験豊富なパイロットでもあり、出張の飛行機を自分でも操縦をした。グルメでもあり、自慢はお手製のローストビーフだった。自分のヨットでのクルージングも趣味であった。

ジョイ・カーボーンさんは、ロサンゼルスを拠点に多くの日本のポップソングを手がけている作曲家でありプロデューサーである。ソニーの音楽レーベルで、カセットテープからホンダのスクーターに至るコマーシャルのヒット曲を書いた。

彼がおぼえているのは、ビジネスと同じように自信を持ってさまざまな音楽の話ができ、社交的で国際的な志向の経営者だったことだ。

「俳優のようだった。社交的だった。」カーボーンさんはこの土曜日に語った。「とても、うーんなんて言ったらいいか、内にむかっていないんだ。話し好きだったし、いつも笑顔だった。人生と音楽の本当の愛に包まれていたようだったし、何事も心底好きでやっていた。」

1999年以来、東京フィルハーモニー交響楽団の会長を務め、年に数回タクトを振った。1993年にはソニーが出資したチャリティーイベントで、(ニューヨークの)リンカーンセンターのエイブリーフィッシャーホールでメトロポリタン歌劇場管弦楽団を指揮した。

会社をリードすることと、オーケストラを指揮することを、よく比較した。

「指揮者はオーケストラメンバーの最高な部分をを引き出さなければならないのと同様に、会​​社社長は組織の中で人々の才能を描かなければならない。」1996年、ソニーの出版物の中で述べている。

ソニーは第二次世界大戦後、破壊と貧困の中で始まり、トランジスタラジオで人気を博し、ウォークマン、トリニトロンテレビ、コンパクトディスクといった、現代のエレクトロニクスの歴史を形成した。

1953年に東京芸術大学を卒業、1957年にベルリン大学を卒業した。バリトンオペラ歌手としてのキャリアを目指していたところで、ソニーの共同創業者である井深大さんと盛田昭夫さんが、ソニーのテープレコーダーの音質についての苦情に興味をそそられ、会社に採用しされた。

30代をソニーの幹部として過ごし、日本企業においては非常にまれな存在だった。1970年にCBSソニーレコード社長となり、1988年には後にソニー・アメリカ・コーポレーションの会長、そして1989年にソニーの最高経営責任者の社長に任命された。2000年ごろまで日々の経営業務に携わった。

同社は言う。ソニーのブランドを構築する上で重要だった人物で、消費者に魅力的な製品を作るために、品質だけでなく、特にデザインに力を入れた。

「大賀さんは、先を見据えるリーダーシップで、世界中でエンターテインメントを体験する人たちに多大な影響を与え、華麗な革新的な実業家だった。」ソニーピクチャーズエンタテインメント会長兼最高経営責任者マイケル・リントンと共同会長エイミー・パスカルは声明で述べている。

アーティストとして、そしてソニーの人間として、二重の生涯を送ろうとした。

ある日、"フィガロの結婚"の舞台袖で出番を待っているときに、疲労から居眠りをしてしまったため、あわてて間違った方向から舞台へ出てしまい、共演者たちを笑いで息が詰まるような目に遭わせたことがあった。

オペラの仕事はあきらめたものの、まだ若いミュージシャンやコンサートをサポートすることにより、日本でクラシック音楽の推進に努めた。

ソニーは近年、困難に直面している。薄型テレビでは韓国のサムスン電子のようなライバルに競り負けており、デジタル音楽プレーヤーでのアップル社も同様だ。ユニークさを維持しているのは、ハリウッドスタジオの所有、音楽のレコーディング事情、そして大ヒットで大賀さんも携わったプレイステーションビデオゲームユニットだ。しかし、エレクトロニクスとエンターテインメント部門を共に所有する利点があるのかと不審がり批評する向きもある。

遺族は、夫人のみどりさんである。ソニーによると、個人葬となる予定である。

取材協力:ロサンゼルスAP通信技術ライター ライアン・ナカジマ
(終)

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