2011年8月8日月曜日

原発反対に参加する原爆生存者たち


The New York Times (英語原文
By MARTIN FACKLER
201186
発信地:長崎 日本

1945年、ヒロセマサヒトさんは、この街全体を焼却し、彼の叔母を鼻や歯茎からの出血や激しい痛みを伴いながらゆっくりと死に追いやった、原爆の白いキノコ雲が上昇するのを見た。それでも、ここそして広島の攻撃の生存者たちと同様、彼は静かに、日本の戦後の原子力に対する信奉を受け入れた。原子力が安全で、且つ、国家の経済的台頭のために必要だったという政府の保証を信じてのことである。

ただ、それは、日本の東北地方の福島第一原子力発電所における今年の災害で、生存者たちが昔の悪夢に再び直面するまでのことだった。何千人もの一般市民が、放射線にさらされた。核技術の致命的な障害で仰天し、最近のタウンホール形式の会議で政府と電力業界が原子力推進派を植えつけたという暴露に激怒した、高齢者の被爆者たちが、数字においては少なくなっているものの、原子力発電に対する反対運動を初めて行っている。

そして今、広島と長崎の両都市が第二次世界大戦の終わりのアメリカの原爆投下から66年を迎えるにあたり、被爆生存者たちは、この独特の道徳的地位を使用できることを願っている。核爆弾の唯一の犠牲者として、人類の悲劇が発生しやすい原子を活用するための努力という考え方から、日本と世界の両方を引き離すために。

「放射線の危険性についての警告を、世界に対し、繰り返し与えることが、日本の運命なのでしょうか?」81歳のヒロセさんは言う。アメリカの原爆が長崎のほとんどを抹消し、瞬時に約40,000人を殺害した時、彼は中学生であった。「私たちが、もっと早くに原子力に対して発言する勇気を持っていればよかったと思う。」

しかし、ここ長崎ですら、口外することは、簡単ではなかった。原子力は、日本の戦後の復興、つまり荒廃からそして経済発展に向かう強行軍に没頭していたコンセンサス主導型の国における困難な状況に挑むために、必要であったのであろう。彼らの姿勢はまた、過去の過ちを繰り返さないように向かわせたある国において、いくつかの歴史的意味を成していた。資源の乏しい日本にとって、1941年に戦争を始めた理由の一つは、新しいエネルギー源を確保することであり、その時は石油であり、アメリカの経済封鎖の後であった。

現在でも、エネルギー安全保障のために国家が共有するビジョンに忠実な圧力は強い。

広島が原爆の記念式典を行った際、この原爆では少なくとも7万人が死亡したが、その土曜日に、広島市長は、原子力発電の終焉を求めるには至らなかったが、原発に対する意見が分かれていることに言及した。

「人類が核エネルギーとは共存できないという信念と共に完全に原子力発電を放棄したいと言う意見があり、一方では、原子力の規制強化とより多くの再生可能エネルギーを要求する意見がある。」マツイカズミ市長は言った。

日本の報道によると、この市長は、若すぎて原爆を目撃しておらず、福島の事故をきっかけに、より強い文面を作ると考えられていたが、事業グループによる反対に直面し引っ込めたという。

そのような不本意な発言であったので、原爆生存者による強い姿勢は、さらに印象的なものになった。先月、被団協が、民間の原子力発電をなくすことを、日本で初めて訴えた。5万人の生存する被爆者団体である。来年の行動計画では、この団体は、新しい原子力発電所の建設を停止と、代替エネルギーが発見され次第、日本の現在の54原子炉の段階的廃止を呼びかけた。

団体は、1956年の設立以来、核兵器廃絶の声を提唱してきた。しかし、その声は、現在の原発問題までは聞かれなかった。日本は、ウクライナのチェルノブイリで数十年前の事故や、多くの西欧諸国に対し原子力事業拡大計画を棚上げにさせたペン​​シルベニア州のスリーマイル島での事故の後ですら、続行し続けた。

「官僚、業界、そしてメディアたちは、原子力の危険性に対して、我々の目をふさぐことができた。」ヤマダヒロタニさん、被団協長崎支部の事務局長は語った。「我々が、彼らに私たちをだますことを許した。原爆の犠牲者となったこの国で。」

ヒロセさんは、長崎の原爆で彼の叔母を失った。彼は、福島での災害の後、原子力発電に関する団体の変化において主導的な役割を果たしてきた。

彼は、福島原発からの放射線にさらされる人々を襲う恐怖を深く理解していたので、左右された部分もあった。彼の弟は、原爆の20年後に死亡した。30代で、6種類の癌に苦しんでのことである。

皆、まだ生きていて、「彼らは、放射線の恐怖の生きている証言者である。」と彼は言った。

ヤマダさんは、日本の原子炉が世界でも最高で絶対に​​安全であることを、政府、産業界、そして報道機関により提唱され、それを信じたために、多くの被爆者は、他の日本人のように原子力発電を受け入れた、と述べた。この「安全神話」により、今では頻繁にそう呼ぶようになったが、日本の当局は、スリーマイル島やチェルノブイリに対する懸念を取り払うことができ、それらの事故は乏しい技術や無能な工場労働者によって引き起こされた、と伝えた。

被爆生存者には、その安全神話から解放されるためには福島で起きた災害の大きさが必要だった、と残念ながら認める人もいる。

「皆は、原子力発電は、原爆とは違うと確信していた。」ヤマダさんは言う。長崎に原爆が投下された時、彼は10代であった。「福島の事故で、どちらもそう違いはないことがわかった。」
(終)

0 件のコメント:

コメントを投稿