2011年8月6日土曜日

チェルノブイリの長い半減期

The New York Times(英語原文はこちら
By FELICITY BARRINGER
2011316

チェルノブイリ原子力発電所での爆発と火災を振り返ってみる。私が1986年にソビエト連邦に住んでいたときに事態が明らかになったものであるが、チェルノブイリ原子力発電所が日本での福島第一原発とはどう違ったかを考えてみる。まず、原子炉の設計である。 建物が破壊された爆発は、チェルノブイリの場合、しくじった安全実験が原因であり、福島第一の場合は、巨大な地震とそれによる津波が原因であった。

開示されている情報の量に対する欲求不満が表明されているが、日本の政府関係者は、チェルノブイリ爆発後の数日間におけるソ連の指導者よりも、はるかに協力的であった。

しかし、認識の火花は同じようなところに辿り着く。 例えば、水曜日の新聞に私の同僚のKeith BradsherHiroko Tabuchiによって記述された、放射線の危険地帯で労働する日本の無私無欲な工場労働者である。私は、瞬時に、ウクライナのプリピャチ出身の消防士らのこと考えた。彼らは、ホースを持ち屋根の上に昇り、燃える火災や露出の燃料棒の上に開いた穴に向かって放水していた。問題を抱えた日本の原発周辺地域からの避難について読んだ時に、私は、チェルノブイリの発電所から約30キロの除外ゾーンから住民を除去させるスクールバスが、無限にかと思えるほど連なっていたテレビの画像を思い出す。

もちろん、英雄的な消防士や保護された住民たちの映像は、国営マスコミにより接触不可能な状況に置かれた。物事がいかに徹底的にコントロールされていたかを見せるためだけに、ウクライナ共産党の役人たちは、爆発から一週間も経たないうちにキエフでの毎年恒例のメーデーのパレードを開催することを主張した。私は、自慢できるわずかなウクライナの女の子たちを映し出そうとカメラがいすから飛び上がったり、毒ついたりしているのを覚えている。彼女たちは、目に見えない放射性粒子漂う間に、お下げ髪で笑顔でお礼をしながら通りを行進していた。

国家のプロパガンダの犠牲にされていたことに気づいていたのは、わたしだけではなかった。長く騙されていることに慣れていたソ連の民衆に対してでも、隠し通すことは長くは続かなかった。お祝いの席を注文した同じ党の関係者が、自分の子供を遠くへ転居させていた情報はすぐに広がった。そして数日の間、ウクライナの子どもたちで一杯の列車が、モスクワでキエフ駅に到着し始めた。次から次へと到着する完全に窓を締め切った列車の窓には、小さく神経質になっている表情の子供たちばかりだった。

私が、その駅に行ったとき、子供達に付随する女性は、ただ親戚に会うためのモスクワにやって来たと断言した。ここには何も見るべきものはありません。立ち去りなさい。このメッセージは、政府の執行者として働いていた凶悪犯が好む黒い革のジャケットのようなものを身に着けた敵対的な人間によってさらに説得力を与えられた。彼は権威の空気を漂わせ私に近づき、消え失せろと、私に言った。「誰が、あなたにキエフ駅で質問をする許可を与えた?」彼はうなった。

それから数年間、キエフ、ウクライナの首都、そしてチェルノブイリへの一連の取材旅行を行った私は、キエフ駅とより親しくなった。私が訪問するたびに、道路清掃トラックは、常に水を噴霧し、ほこりをおさえ、放射性粒子が空中に舞い上がらないようにしていた。メーデーのパレードで正常を装った見せかけは、パレード自体ほど長くは持続しなかった。

誇大の必要のない巧妙に作成された物語の一部が、そこにあった。しかし、ソ連当局はそれが価値があるとそれを宣伝することに抵抗できなかった。あの夜、消防士らが原子炉の屋根の上でしたことは、罰金のような、誰でもわかる自己犠牲の一例だった。

消防士のほとんどは、急性放射線症のため2週間以内に死亡した。シフト司令官、中尉レオニードTelyatnikovは、放射線の病気で衰弱させる状況においても生き残った。しかし、彼の指揮下にあった若い消防士らは被爆で死亡した。中尉私が災害の1年後に彼にインタビューした時、Telyatnikov中尉の髪は再成長していた。その時の彼の記述は、忘れられない。

「我々が火災を消そうとしている時、皆は放射線を見ることができるような印象を持っていた。最初、そこには、多くの物質が流れ、光、花火のようでもあった。投げ込まれたかのように、あちこちから湧き立つ光の点滅があった。

そして、人々がいた屋根の上にガスのようなものがあった。それは煙のようではなかった。そこには、煙もあった。しかし、それは霧のようなものだった。それは、独特の匂いだった。」

彼は、屋根の上で吸収された放射線の重い線量で、今後数年間に癌になるという可能性について話をしたがらなかった。「私は、年を取りたい。」と彼は言った。

彼は、2004年、がんで亡くなった。53歳であった。
(終)

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