2011年8月29日月曜日

最初の日系アメリカ人追放を偲ぶ記念碑

The New York Times (オリジナル原文はこちら) (スライドショーはこちら)
By KATHARINE Q. SEELYE
201185
発信地:ベインブリッジ島、ワシントン州
フランク・キタモトさんは、まだ2歳だった。日本が第二次世界大戦で真珠湾を爆撃し、彼と彼の家族、そして270人以上日系人が、強制的にこの森林に覆われた島から退去させられ、収容所に送られた時のことである。キタモトさんは、現在72歳。彼は、若い頃を、自分のアイデンティティについて深刻に悩みながら過ごした。日本の伝統を恥じ、彼が白人だったらと願っていた。他の若い男たちは、日本人の特徴を隠すために整形手術を受けるようにまでエスカレートした。自殺した者もいる。

「私は、ここが平等と自由の土地で、差別などが起こるはずがないと、子供の頃には思っていた。」キタモトさんは、その後、歯医者となり、先日その事務所で話を伺った。その事務所には、壁一面が当時からの写真で覆われていた。「だから、私に何か問題があったからだと思った。私は悪い人間だった。」

土曜日に、キタモトさんは 、元囚人、その家族、ベインブリッジの住民や観光客を含めた何百人もの人たちと一緒に、 当時のことを思い出すだろう。アメリカ市民たちが適正な手続きなしに、米国政府によってその民族性を理由に自分の家から追放され、監禁された時のことを。小さな入江の港では、湿地と古い杉林の中で、彼らは、政府が後になって認めたことが、アメリカの歴史の中で最も恥ずべきエピソードの一つであったことを記す記念碑を捧げる。その碑の目的が青銅の文字で(日本語で)刻まれている。「二度とないように、それが再び起こらないように。」

これが最後かもしれないと、集まる人たちがある。ハヤシダフミコさん、キタモトさんの叔母であり、兵士によって検挙された時には彼女は31歳で、現在は99歳か100歳であるが、実は記録がはっきりしていない。ベインブリッジ出身で生き延びた最高齢の囚人である。

シアトルポスト、インテリジェンサーによる彼女の有名な写真は、抑留を象徴するものとなっている。そのカメラは、1942330日、生後13ヶ月の娘のナタリーを抱いている彼女を捉えている。不似合いなスタイリッシュな帽子が彼女の頭の上にかぶせられ、識別タグは、ふたりのコートから吊り下げられている。まるで荷物であるかのように彼らは札を付けられて、それらは出荷の準備がなされた。

ベインブリッジは、退去させられた日系アメリカ人の一番最初のグループが住んでいた場所であり、戦後の帰還の際、歓迎されて迎えられた数少ないコミュニティの一つであった。島から出された277人のうち、150人が戻ることができた。そして、約90人は、今日まだ生存し、20人はまだここに住んでいる。

真珠湾攻撃を受けた過剰反応の中で、政府の多くの高官たちは、日系アメリカ人たちを、米国に対する潜在的な工作員や共同研究者として見ていた。1942年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、軍事施設の近くに住む日系アメリカ人を退去させる行政命令を発した。この碑は、ベインブリッジ島日系アメリカ人排除記念碑と呼ばれている。その碑には島の277人の日系アメリカ人すべての名前が刻まれ、その3分の2はアメリカ市民であったが、それから3年の間、島から退去させされた。

新鮮な杉の香りが、蛇行する壁面から、漂っている。この記念碑は、小さなフェリー乗り場近くの8エーカー(32)を占めている。ここは、固定された銃剣とライフル銃を身につけた米軍兵士が当惑していた島の日系アメリカ人たちを集めた場所である。退去の準備にはわずか6日間しか与えられず、彼らは着の身着のままでどこへ行くのかも知らされてはいなかった。

兵士たちは、橋を渡り、シアトル行きフェリーへ彼らを連れて行き、シアトルから3日間、列車に乗った。彼らが町を通り抜ける間、列車の窓は暗く遮られていた。そして、列車から乗り継いだバスが辿り着いたのは、カリフォルニアの砂漠にあるマンザナール強制収容所であった。約1年後、キタモトさんの家族を含めた多くの人々は、シアトル地域からの他の囚人たちが収容されたアイダホ州南中央部のミニドカ強制収容所への移転を求めた。彼らは戦争の間、そこで過ごした。

キタモトさんの姉妹の一人である、当時7歳で、現在76歳であるリリー・キタモト・コダマさんは、収容所でのものすごい風と砂嵐を思い出す。しかし振り返ると、政府が「これを成し遂げることができたかもしれない」ということにとても驚いた。」と彼女は話す。太陽が降り注ぐベインブリッジ島の歴史博物館の木製のベランダに座り、彼女はそこでボランティアをしている。

戦争が終わっても偏見は消えなかった、と彼女は言う。彼女は、シアトルにある店舗の販売員たちが彼女の家族に対して用を聞くことを拒否したので、シアーズローバックのカタログを使ってすべてを注文しなければならなかったことを思い出す。彼女は、夕食でマッシュポテトを食べたと人々に言うことで、「私がアメリカ人であることを証明しようとした」が、実際は、彼女はビーチへ行って、海藻を集めていたと言う。

「今では」彼女は笑いながら言う、「シアトルからのフェリーで寿司を販売している。」

全体では、政府は、アメリカ西部のほぼ全ての日系アメリカ人12万人を、主要10収容所と多くの小規模の拘置所に投獄した。戦後数十年経ってから、救済運動の一環として、それまでは彼らの過去に対して注意を喚起したくなかった生存者たちが、その経験について話し始めた。

その動きは、1988年に頂点に達し、ロナルドレーガン大統領は、国家として謝罪し、最終的にそれぞれの遺族に対して、手紙と2万ドルが送られた。(議会は、返還のために3,700万ドル充当した。1983年のドル計算では、損失した総所得と総財産が20億ドル近いと推定されたものの。)

それ以来、様々な口述での歴史プロジェクト、セミナー、モニュメントは、主にアメリカ西部で広がっている。新しい案内センターが、ワイオミング州のかつてのハートマウンテン収容所だった場所で今月後半にオープンすることになっている。

ここベインブリッジでは、追悼碑に加えて、個人的グループやパブリックグループが10年以上に渡り計画されているものもある。歴史博物館では、アンセル・アダムスによるマンザナールでの受刑者の写真のコレクションが展示されている。博物館では、1883年からのこの島での日系アメリカ人の歴史をたどる展示もされている。

ベインブリッジ島が独特なのは、追放される人々の第一陣の乗船ポイントだったということである。政府は、テストケースとして、島の少ない人口を利用し、大人数の再配置を行うことができるかどうかを確認したのである。ベインブリッジ島での検証は、アメリカ西海岸南北における強制収容のモデルとなった。

ベインブリッジはまた、日系アメリカ人が島の組織の一部として何十年も住んでおり、珍しい場所でもあった。彼らは最初、1880年代にやって来た。イタリア人とハワイ人達と一緒に、木材の工場で働き、そしてイチゴ畑を耕作した。子どもたちは一緒に学校に行った。

島民の中には、ウォルト・ウッドワーズと彼の妻のミリーがいて、地元紙、ベインブリッジレビューを発行していた白人のカップルであった。彼らは、民族排除に反対する発言をする編集記事を載せていた。収容期間中、ウッドワーズは、彼らの投獄特派員からのニュースを伝え、結婚、出生と死亡情報に加え、キャンプの状況を詳述した。その新聞は、戦後になって、国民の認識を受けるようになった。そして1994年、デビッド・グターソンの本「ヒマラヤ杉に降る雪は」では、ウッドワーズに触発された登場人物を配し、一般市民に彼らの物語をもたらした。ベインブリッジは、囚人たちの帰還を歓迎し、彼らの生活の立て直しに尽くした数少ないコミュニティの一つであった。

キタモトさんは、それは追放された人々と同様、その帰還を受け止めてくれた人々に対し光栄に思いながら、記念碑を眺めた、と言った。

自分が寛大にならずして、自分の人生とともに歩むことはできなかったと分かるようになったと、彼は話した。しかし、彼は、9/11のテロ攻撃以降のイスラム教徒に対する差別により、彼の不安が再燃している、と述べた。

「イスラム教徒に起こっていることは、私たちに起こったことと非常に似ている。」と彼は言う。「我々が、起こる出来事に対する我々の反応を不安がらせないようにするまで、それは続くであろう。」

彼の叔母、ハヤシダ夫人は、小柄で活動的だが、今でははほとんど憤りを抱いていないようだ。「我々は敵のように見えた。」彼女は説明する。今住んでいるシアトルで、くつろいだリビングルームに座りながら。「そして、私は、頼るべき政府を信頼した。少なくとも家族はいつも一緒であった。私は困惑していたが、私はルールに従った。」

彼女の娘、ナタリー・ハヤシダ・オングさんは、70歳で、テキサス州に住んでいる。救済の動きが始まって以来、有名な写真は彼女の母親の経歴を象徴するものになっていた、と言った。「彼女は、誰でもなく、しかし、彼女は皆を表現していた。」オングさんは言う。

ジョン・ポール・ジョーンズ、ここに住み記念碑を設計した有名な建築家である。彼は、順調に流れていた生活が突然の追放により妨害された生活の感情を捉えようとし、その衝撃を急激な断層によって表していると、話した。

「私は、アメリカインディアンであり、母国から遠く離れている心情を理解する。」ジョーンズさんは言う。「この記念碑は、彼らが失ったものために称えるための場所だと考えている。」

(終)

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