2011年7月17日日曜日

震災から甲子園大会出場まで 苦悩を抱える東北高校野球部

By KEN BELSON
2011715
発信地;仙台、日本

日本中の高校野球選手は、全国優勝を目指し甲子園球場でプレーすることを夢みている。その夢は、一握りの選手しか叶わないけれども。東北高校野球部も例外ではない。東北高校は、日本で最高の投手と言われるダルビッシュ、シアトルマリナーズのストッパーであった佐々木主浩選手を輩出するスポーツ大国である。彼らは、甲子園大会への出場は40回果たしてきたが、まだ優勝したことはない。

41回目の東北高校の挑戦は、今週、志津川高校を8-0で破り、幸先の良いスタートを切った。それは、8月の甲子園大会に宮城県代表チームとしての出場校を決めるために地域大会の開幕戦であった。東北高校は、土曜日に次の試合となるが、その出場権を勝ち取るために、さらに4試合で勝たなければならない。

かかるプレッシャーは、相当だ。甲子園でのトーナメント戦は、ワールドカップのようなものである。この国では、数週間の間、皆がこのトーナメントに釘付けになる。毎年、春には地区から選抜形式で、夏には、地域大会の予選方式で出場校が決まる。しかし、4カ月前に東北地方を襲った地震と津波の影響で、今年の挑戦は、違った意味を持つことになった。

15マイル(24km)内陸にある、東北高校は、物理的な深刻な被害は免れた。しかし、親族を失い、住まいが流された選手もいる。災害1週間後というチームの春の甲子園大会への参加もまた、流動的であった。

災​​害がきっかけとした混乱で、選手、コーチ、コミュニティが、この国の緊急時に、野球をすることがいかがなものかということを議論した。数年間の練習を経たものの、選手たちは、野球とほとんど神話的意義を持つ甲子園大会への不屈の専念に疑問を持った。結局、彼らは甲子園に行った。苦悩の末のことである。

「選手たちにとって、甲子園は非常に有名で、彼らが行きたいと思っていることは、よく知っている。」タケウチミツルさん、チームのコーチの1人は言う。「しかし、水や電気がないときに甲子園に行くことは、適切な選択のようには思えなかった。確かに、彼らの大きな夢ではあったが、揺らいでいたのも事実だ。特に3年生にとっては、最後のチャンスであった。」

選手たちは、その日、311日の午後は、練習中であった。地震後に停電となり、津波が海岸に激突していた瞬間のテレビ中継を見ていなかった。寮も停電のため、選手の多くは、食料と水を欠くにもかかわらず、避難所となった近隣の学校に逃げ込んだ。強い余震が続き、ほとんど眠れなかった。携帯電話もなく、自分の両親と連絡の取れない選手がほとんどであった。

大阪近郊で開催される甲子園大会に行くことができるだろうか、トバ エイタロウさんは疑問に思っていた。バックアップキャッチャーとチームの副キャプテンにとって、それは最初の遠征となる。しかし、トバさんは、津波による被害を知り、甲子園は待つべきであろうと考えた。

「次の日、私は、テレビや新聞で、海岸沿いの町の状況を見た。」トバさんは言う。「そして、私の中で、野球の問題は突然消え、他人の安全を心配し始めた。」

トバさんと選手たちは、難民センターで支援したり、水を運んだり、料理をしたり、食べ物を探したりしながら、その後数日間過ごした。選手たちは、避難所の皆が終わるまで食事をしなかった。電話回線が復旧し、生徒らは、やっと自分の家や家族と連絡がとれた。

生徒らは、何をすべきかひどく悩んでいた。甲子園大会を出場辞退しても、誰もそのことをねたみはしないだろう。学校の多くが破壊され、数千人の人々が死亡または行方不明であった。そんなに深い悲しみの中で、野球など取るに足らないことのようだった。大会ををキャンセルすると考えられていたが日本高等学校野球連盟は、開催を決定した。福島からのチームは、出場を辞退した。

しかし、隣人やもっと広い世界に対して、災害に直面したその回復力を示すために、選手の多くはチームが参加しなければならないと感じていた。勝っても負けても、フィールドにいる選手たちの姿が感動を呼ぶであろう。

イガラシユキヒコさん、チーム監督は、熟考に熟考を重ねていた。彼とやりとりする生徒の親や、卒業生、他の人のほとんどは、チームを送り出すことに賛成していた。すべての生徒の親に対して、子どもたちが安全であることを通知された後、イガラシさんは、318日、大会に参加することを決めた。主催者に対する参加通知期限のその日であった。

「私がマネージャーとしての5年間のなかで、最も困難な決断だった。」とイガラシさんは言う。「生徒たちは、ショックを受けた。彼らのムードに大きな変化は見られなかったが、緊張感を持っていることは、彼らの表情から伺えた。」

しかし、彼は付け加えた。甲子園で「人々から声援される高揚感は、味わった者でないとわからない気持ちである。」

東北高校側の準備に対する便宜を図り、主催者は大会6日目に、東北高校の初戦を移動した。チームは、開会式でグラウンドを行進した際、一段と大きな拍手を受けたが、1回戦で7-0で敗退した。

甲子園大会に相当するものは、米国にはないが、似たようなものとしては、NCAANational Collegiate Athletic Association)が挙げられる。大学バスケットボールのトーナメントである。しかし、そのイベントは、もっと商業的で、多くの都市で開催される。

日本の夏の甲子園大会は、1915年に始まった。プロ野球リーグが結成される20年前のことである。今年は、4,000以上の高校野球部が、甲子園大会出場をかけて戦う。

福島の原子力災害による電力の全国的な不足から、主催者は、甲子園での夜間照明使用を避けたいと考えている。1回戦は午前8時に開始され、決勝戦は、正午ではなく、9:30に開始する予定である。

とにかく、選手たちは彼らのすべてを出し切るだろう。甲子園での経験は、とても感動的で、試合に負けると、くやし涙で自分の顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼らは、バッグにに球場の土をすくい持ち帰る。

伝説は、そこにも生まれている。1998年には、現在レッドソックスの松坂大輔は、準々決勝で17回に渡る完全試合を投げ抜いた。その2試合後、彼はチームの優勝をかけて、無安打試合を成し遂げた。

日本人は、ひとつの目的に向かって1年中練習し、ほとんどの人々の心にある、汚されてされていない純粋さを持っている選手たちが出場する、甲子園大会が大好きだ。選手たちは、市民の模範のように行動すべきと考えられている。高校野球連盟は、選手が盗みや、喫煙、いじめでつかまった場合には、出場権を与えないことにしている。

ある意味で、日本の高校野球は、教師が軍隊のような規律とともに教えた過去の時代を呼び起こす。東北高校野球部は、このやり方の典型である。選手は、午後230分から午後7時まで、毎日練習。夕食後、彼らは自発的なトレーニングを続ける。唯一の休暇は、年末年始期間中だけである。

負傷した選手たちは、編成を組んだ4方向へランニングをしながら、グラウンドを整備する。センターフィールドのスコアボードには、この言葉がある。「規律なくして、実行なし」

選手たちはグラウンドに入る前に一礼し、チームの初代監督の銅像の前で一礼する。銅像の土台の両側には「甲子園で行進果たす」という言葉が彫られ、併せて、甲子園大会出場を果たした年が記されている。

選手たちが、3月、甲子園から戻った後、彼らは、毎日、数時間かけて、津波の被害を受けた石巻市に通い、雪の中を、瓦礫を運び、道路や家屋の清掃をし、食べ物を配った。

コミュニティサービスは、選手たちに、石巻の人たちがどのような経験をしていたのかを説明した。それには、イトウユウスケさん、15歳も含まれていた。彼は、同じチームメイトで、石巻市の自宅の二階が津波でさらわれた。

彼に残されたものは携帯電話だけで、彼が4月に東北高校に入るまで、避難所で暮らしていた。イトウさんは、仙台への転居はとても不安だったと言った。しかし、練習と厳格な規則にも馴れて、チームメイトとのキャッチボールだけはうれしい気晴らしとなっている。

彼は言う。私にとって、最も重要なことは、「野球部の先輩たちが、私を励ましてくれ、全精力を傾けて私を支援してくれる。」ことである。 
(終)

(記事寄稿:オオサワハルミ、スズキカンタロウ)


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