2011年7月14日木曜日

ただ野球を続けたかった福島の球児たち

By KEN BELSON 
2011712
発信地:小野町(福島県)、日本

3月に、地震と津波が日本の東北地方を襲った時、海岸線を行ったり来たりしていた高校野球のチームは、突然、練習する場所を失った。福島で深刻な打撃を受けた原子力発電所に近い学校も例外ではなかった。放射線レベルがとても危険で、周辺の学校は放棄され、野球部員たちは、全国の市や町に避難した。

しかし、誰も、毎年大阪で開催される恒例の、夏の甲子園大会に出場するチャンスを逃したくはなかった。甲子園大会は、日本全国各地からの高校球児たちが全国優勝をめざす大会である。彼らの夢を叶えるため、異郷生活を余儀なくされた3つの高校は、暫定的に野球部を合併した。しかし、皆の場所はばらばらであった。

そして、彼らは、ある最近の土曜日にそこにいた。相双連合の野球部。帽子を取って、通常の野球部員のように守備練習を行った。しかし、彼らではない。富岡高校、相馬農業高校、双葉翔陽高校からの中には、家族、友人、家を失った学生もいる。襲われた原子炉近くの町は、数年間、立ち入り禁止となるかもしれない。友達と一緒の卒業も果たせず、ほとんどの学生は、新しい場所での異郷生活を送っている。

混乱の中でも、彼らは、野球で落ち着きを取り戻していた。

「野球部員たちは、彼ら自身を悲観はしていない。」サンペイノリユキさん、相馬農業高校からのコーチは、ダブルヘッダーの最初の試合前に言った。「彼らは、ただ、今まさに、何ができるかという現実をわかっている。きちっとしたことを、できる限りやろうとしている。」

彼らは、心温まる物語を欲する日本中で、希望の象徴となっている。彼らの生活と連合チームは、強烈に、ニュースメディアの関心の焦点となっている。彼らに起こってきたすべてと、日本人が野球選手や一般の選手たちに対し大切にする、無私無欲と揺るぎない献身ぶりを示し続け、選手たちは賞賛されている。

現在、選手たちが県内各地に散在していることや、各週末の1日にしか、一緒に練習することができないことで、彼らの話は、さらに魅力的になっている。中には一緒に野球をしたことがない選手もいる。しかし、すでにしっかりした友人になっているように見える。彼らの明白な問題は、見当違いである。多くの暴投や内野手がトンネルするゴロのように。

もちろん、日本の東北地方各地の学生らは、津波や原子力被害の影響を受けている。地震が311日午後246分に起きた時、多くの選手は野球の練習していて、ユニフォーム姿のまま避難した。陸前高田市の選手たちは、自分の学校を巻き込んだうねり寄せる波を逃れ、より高いところの広場へ避難した。愛する人や家庭を失った選手や、避難所暮らしの選手たちがいるチームがほとんどである。

しかし、相双連合チームを取り巻くこの状況は、全国的な注目を浴びている。ヤノツカサさん、彼は、高知県で同じように2つの高校の合併から作られた野球部の監督で、日本のリグレーフィールドと言われる甲子園球場の有名なツタから取った苗木を、相双連合チームに送った。

それでも、相双連合チームの形成は簡単ではなかった。3つのチームの統合のため、着用するユニフォームはどうする、応援歌はどうする、誰がチームを率いるのか、といった問題があった。選手らは、自分の制服を着用し、学校の位置する相双沿岸地区を意味する2つの文字を載せた同じ青い帽子を着用した。ハットリヨシヒロさん、双葉翔陽高校の監督で、このチームを率いる。チームの17名のうち14名は同高校の選手である。

学生を保護するために、福島高校野球協会は、地域大会で使用される各球場で5カ所ずつ、毎日、放射線のレベルをチェックを行う。放射線レベルが1時間あたり3.8マイクロシーベルト超える場合、その競技場でのその日の試合は延期される。雨の遅延の際には、放射線レベルが再確認が必要となり、球場を維持する係員は、ゴム手袋を着用しなければならない。

最も複雑な事情が、選手たちを巻き込んだ。子供の頃から、彼らは、家庭や学校ではなく、野球場で自分の時間のほとんどを費やしてきている。参加したいという衝動にもかかわらず、選手の中には、昔のチームメイトが果たせなかった夢に、自分たちが挑戦するということに罪悪感を抱く選手もいた。

ナカムラトモコさんは、このことを、じかに知っている。3月の災害の後、彼女の息子のコウヘイは、野球をする望みをすべてあきらめていた。富岡高等学校での彼のチームメイト、この学校は損傷した原子炉から約6マイル(10km)の距離であるが、別の学校に転校したり、野球を止めたりしていた。

彼女が野球のことを持ち出すたびに、コウヘイは彼女に向かって叫んだ。「もう、野球はしない。チームがないから希望もない。」息子のチームが、初の練習試合で、5-2で高萩清松高校に負けたことを、彼女は思い出す。

そして、コウヘイの監督であった、サカモトシュウジさんは、他の学校からのメンバーで作られているこの新しいチームに参加するよう、コウヘイを誘う電話をよこした。コウヘイは、このチャンスに飛びついた。「3月と4月の間、コウヘイは心配していた。だが、相双連合チームに参加してみると、不安は減った。」そして「モチベーションも高い。」サカモトさんは言う。

コウヘイは、現在、週末に70マイル(約110km)を練習のために通う。富岡から唯一のメンバーである彼は、ショートとバットのクリーンアップから始める。

「新しいチームメイトと一緒にいることに慣れてきた。野球ができて、本当に嬉しい。」コウヘイは言う。「最初は、他の学校の違った練習メニューで混乱したが、もう慣れた。」

時間は短い。6月下旬、チーム初の練習試合が、雨で中止になったので、この水曜日に始まる地域大会までに、コウヘイと彼のチームメイトには、2回の週末しか残されていなかった。守備の練習中に、ハットリ監督は、ゴロを撃ち放ち、野球のコーチや海辺の町の住民に共通する荒い方言でどなりながら、指示を出していた。

彼は、選手たちが住み慣れたところから立ち退かされていることを知っているが、彼は、明らかに、愛のむちを与えていた。最初のゲームの8回裏、相双連合チームは挽回を仕掛けていた。2アウトながら2人のランナーがいる。すでに2つのヒットを打っているナカムラが、バッターだ。キャッチャーがボールをそらし、マツモトヒロユキは三塁からホームをねらった。ボールは遠くへ転がらず、彼は簡単にタッチアウトとなってしまった。

「この馬鹿!」ハットリ監督は、新入社員に対する鬼軍曹のようにどなった。「クリーンナップが打席にいるって、判っていただろう?」

マツモトの父、ゼンイチロウも、同意してうなずいていた。それでも、彼は、息子が野球をするチャンスを得て、喜んでいた。津波の後、ヒロユキは、三春の避難所にいた。35マイル(56km)西である。一方、彼の両親はいわき市にいた。南へ35マイル(56km)である。

誰かが彼の息子がテレビに出ていたことを、マツモトゼンイチロウさんに伝え、その2週間後、彼らは会った。彼らは、今、一緒にいる。しかし、彼らの家は、津波で流され、「アメリカに向かう途中にある。」父はジョークを言った。落ち着かない新しい環境の中でも、ヒロユキは、球場では別人である。野球で、「彼がもっと精力的になることを願う。」マツモトゼンイチロウさんは言う。

チームのキャッチャー、エンドウタケシは、50マイル内陸の郡山に転居する必要があったにもかかわらず、野球をすることを熱望したひとりである。彼は、いとこを継いでキャプテンとなった。そのいとこは、津波までは、双葉翔陽チームを率いていたが、東京に転居した。土曜日の練習日の前夜、タケシの父、キヨテルさんは、息子の頭を剃り、自分の熱意を示したがる選手がしたがる坊主頭にした。

「上級生として、そろそろ勉強について考えるころだ。エンドウキヨテルさんは言う。「しかし、大会の初戦までは、彼は、野球のことしか目に入らない。」

(記事寄稿:オオサワハルミ、スズキカンタロウ)


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