2011年6月19日日曜日

原発危機の最中、深刻な不信問題 (その5 最終)

By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER  
発信地:東京
紙面掲載日:2011612

(5 of 5)

同盟国との緊張

乏しい情報の流れとその場限りの意思決定は又、日本に駐留する約50,000人の軍事要員を有する米国と、日本との関係を緊張させた。

日本は、津波の被害者を助けるための米軍の申し入れを、迅速に受け入れたものの、最初の段階のワシントンでの認識では、展開する原子力災害の中で拒絶と誤解を引き起こし、「米国と日本の同盟の危機」を作られていたと、ナガシマアキヒサ、防衛次官は語った。

地震から48時間以内に、米国原子力規制委員会からの職員が東京に到着したが、彼らは情報を得ること、あるいは日本側との会合を手配することすらできなかった。一方、ワシントンは東京は発電所でのダメージを正確に伝えていないと確信したのは、通常北朝鮮の核実験を監視するために使用される航空機や衛星を使い、発電所の周りでアメリカ人が得ていた測定値に基づいていたからだ、と匿名を希望するアメリカ人士官が言った。

この士官によると、オバマ政権は、より多くの情報を共有するために「菅政府に頼る」を決定をした。316日に、アメリカの当局は、駐日大使ジョンV ·ルースを含めて、米国が福島原発から50マイル(80キロ)の地域から避難することをアメリカ市民に助言することを日本側に通知した。その範囲は、その後日本で設定された18マイル(30キロ)の自主的避難のゾーンよりもはるかに広いものであった。

アメリカ人らはまた、彼らの拠点での重要度の低い職員から自主的な避難を始め、より深刻な事態を示唆し、重要な軍事要員すら引き上げ始めた。東京がより多くの情報を供給していなかったからだ。このアメリカ人士官とテラダ氏を含めた補佐官らは言った。

ワシントンと、ますます不安になる最大限の努力をしていた日本の国民に対し誇示するため、菅首相は、原子炉に空中から水を放水するため、軍のヘリコプターを配備した、とテラダ氏や他の日本人顧問は言った。彼らは、ほとんど冷却効果は望めないだろうと分かっていた。317日、テレビで生放送されたそのヘリコプターは、空中から水を放った。しかし、強い風が吹き、ほとんどの水はコースを外れたのも明らかだった。

それでも、テラダ氏は、菅首相が彼の作戦が成功したと伝えるため、個人的にオバマ大統領に連絡を取った、と言う。その日遅くワシントンでは、オバマ氏は日本大使館を訪問し、哀悼の本に署名を行った。これが、首相官邸では、アメリカの大統領による承認のうなづきだと考えられた。

ナガシマ防衛次官は、より良く情報を知らせてほしいというアメリカの要求で、最終的に日本の対応が改善された、と言う。320日、情報を整理し、原子力事故への対応を議論することを目的として、アメリカと日本の政府関係者の間で毎日の会議開催案を菅首相に提示した。

その初会議は、翌日、首相官邸で開催された。ナガシマ氏は、会議は一時間半続き、通常は約50人が関与し、米国の原子力規制委員会、米国大使館や軍関係者だけでなく、政治的指導者、延べ5省庁、原子力機関、そして東京電力から成る大きな日本側の人間を含んでいた、と言う。その会議は、ホソノ氏が主導した。原発関連の対応では首相のキーパーソンになっていた。

ナガシマ氏は、さらに重要なのはアメリカ人らがこの会議に到着する前に何が起こったかである、というのは、日本人らは1時間前から集合し、情勢を議論し、何をアメリカ人たちにに伝えるかを練り上げていたのだ。と述べた。ナガシマ氏は、様々な省庁や東京電力、議題を設定した政治家とともにこのような会議が開かれるのは、この大災害以来初めてのことである、と言った。

「日本側は、皆を同じ部屋に招集できるのを必要とした。」ナガシマ氏は語る。「今回の米国の刺激は、日本が災害対策管理体制を改善するためのいい機会となった。」
(終)

Kantaro Suzuki 記事寄稿)

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