The New York Times (オリジナル原文はこちら)
By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER
発信地:東京
紙面掲載日:2011年6月12日
(1 of 5)
3月12日の夕方、福島第一原子力発電所最古の原子炉は、水素爆発を起こし、完全なメルトダウンの危険にさらされた。菅首相は、原子炉を冷却するために海水を注入する危険性を比較検討するよう、側近らに依頼した。
自身のキャリアを日本の産業界と官僚の間の癒着の疑いに基づいて構築してきた菅首相は、この重要な瞬間には、ほぼ暗闇の中で行動していたことが明らかになった。彼は主要原子力監査員からまぎらわしい危険性分析を受け取っていた。その監査員は熱心なプロの原子力学術員であるが、首相は信用していないと首相側近は言った。その監査員はまた、原発を運営する会社のもくろみに慎重で、問題を隠蔽しようとした経緯からも考えられることである。
菅首相は、すでに海水を使用し始めていたことを知らなかった。首相官邸の雰囲気の推測から、東京電力は発電所管理者に停止を命じた。
しかし、管理者は日本企業としては考えられないことを行った。彼は、指示に従わず密かに海水を使用し続けたのだ。専門家は言う。より深刻なメルトダウン危機をほぼ確実に防止したであろう決定により、彼は予想もしない英雄となった。
複雑なドラマが、チェルノブイリ以来の最悪の日本の原子力災害に関する処理の背後にある亀裂らを露出させている。災害は、最終的に原発のの6つの原子炉のうち、4つで爆発が起きた。菅首相側近、政府官僚、及び会社当局の間で、相互に疑わしい関係が、滑らかな意思決定を妨げたのである。
ドラマの中心は、よそ者扱いの首相で、彼は迅速な行動の必要性を感じていた。しかし、首相は、原発の作業員、従順な官僚、そして思いやりのある政治家の間の強力な連携システムに根本的な不信感を持っていたため、多くの情報をふまえた上で意志決定をするために利用されるべき情報源が、首相から奪われたのである。
かつては草の根の活動家であった、菅首相が危機管理を行うのに苦労していたのは、この未曾有の原発危機に対応するために、彼の前任者らによって確立されたまさしくその構造、連携システムに頼ることができないと感じたからである。
そのため、彼は最初、原子力発電所についてほとんど知らない、かろうじて工場のオペレータや原子力規制当局と情報を交換できる、親しく圧倒的な少数の顧問たちだけを頼っていた。津波による人道的災害を管理するために苦労しながら、菅首相は、原子力危機を悪化させる政府の対応を即興し、個人的に原発へ介入したり東京電力に任せたりで、対応を迷っているかのようであった。
「遅れがあった。まず第一に、我々は東京電力から正確な情報を得ていなかった。」マツモトケンイチ顧問は語る。しかしマツモト氏は、東京電力と官僚に対する首相の不信感が、全体的な対応に「影響した」と付け加える。
初期の混乱で、米国政府が大変に心配したため、断固たる行動をしっかり取ることや情報を共有することで協力するようにと圧力がかかり、日本をますます煽ることとなった。さらに事態を悪くしたのは、初期段階での米国の援助を受け入れるの嫌がったことだ。そのとき、アメリカはポンプ車、無人ロボットやアメリカの原子力危機の専門家のアドバイスを提供しようとした。
「我々が負のスパイラルに陥っていることを知り、それで米国との関係が傷つく。」テラダマナブ氏、その時点で菅首相の補佐官を務めた議員は語る。「我々は、アメリカとの信頼を失い、そして東京電力は私達の信頼を失った。」
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿