2011年6月19日日曜日

原発危機の最中、深刻な不信問題 (全文)

By NORIMITSU ONISHI and MARTIN FACKLER  
発信地:東京
紙面掲載日:2011612



312日の夕方、福島第一原子力発電所最古の原子炉は、水素爆発を起こし、完全なメルトダウンの危険にさらされた。菅首相は、原子炉を冷却するために海水を注入する危険性を比較検討するよう、側近らに依頼した。

自身のキャリアを日本の産業界と官僚の間の癒着の疑いに基づいて構築してきた菅首相は、この重要な瞬間には、ほぼ暗闇の中で行動していたことが明らかになった。彼は主要原子力監査員からまぎらわしい危険性分析を受け取っていた。その監査員は熱心なプロの原子力学術員であるが、首相は信用していないと首相側近は言った。その監査員はまた、原発を運営する会社のもくろみに慎重で、問題を隠蔽しようとした経緯からも考えられることである。

菅首相は、すでに海水を使用し始めていたことを知らなかった。首相官邸の雰囲気の推測から、東京電力は発電所管理者に停止を命じた。
しかし、管理者は日本企業としては考えられないことを行った。彼は、指示に従わず密かに海水を使用し続けたのだ。専門家は言う。より深刻なメルトダウン危機をほぼ確実に防止したであろう決定により、彼は予想もしない英雄となった。

複雑なドラマが、チェルノブイリ以来の最悪の日本の原子力災害に関する処理の背後にある亀裂らを露出させている。災害は、最終的に原発のの6つの原子炉のうち、4つで爆発が起きた。菅首相側近、政府官僚、及び会社当局の間で、相互に疑わしい関係が、滑らかな意思決定を妨げたのである。

ドラマの中心は、よそ者扱いの首相で、彼は迅速な行動の必要性を感じていた。しかし、首相は、原発の作業員、従順な官僚、そして思いやりのある政治家の間の強力な連携システムに根本的な不信感を持っていたため、多くの情報をふまえた上で意志決定をするために利用されるべき情報源が、首相から奪われたのである。

かつては草の根の活動家であった、菅首相が危機管理を行うのに苦労していたのは、この未曾有の原発危機に対応するために、彼の前任者らによって確立されたまさしくその構造、連携システムに頼ることができないと感じたからである。
そのため、彼は最初、原子力発電所についてほとんど知らない、かろうじて工場のオペレータや原子力規制当局と情報を交換できる、親しく圧倒的な少数の顧問たちだけを頼っていた。津波による人道的災害を管理するために苦労しながら、菅首相は、原子力危機を悪化させる政府の対応を即興し、個人的に原発へ介入したり東京電力に任せたりで、対応を迷っているかのようであった。

「遅れがあった。まず第一に、我々は東京電力から正確な情報を得ていなかった。」マツモトケンイチ顧問は語る。しかしマツモト氏は、東京電力と官僚に対する首相の不信感が、全体的な対応に「影響した」と付け加える。

初期の混乱で、米国政府が大変に心配したため、断固たる行動をしっかり取ることや情報を共有することで協力するようにと圧力がかかり、日本をますます煽ることとなった。さらに事態を悪くしたのは、初期段階での米国の援助を受け入れるの嫌がったことだ。そのとき、アメリカはポンプ車、無人ロボットやアメリカの原子力危機の専門家のアドバイスを提供しようとした。

「我々が負のスパイラルに陥っていることを知り、それで米国との関係が傷つく。」テラダマナブ氏、その時点で菅首相の補佐官を務めた議員は語る。「我々は、アメリカとの信頼を失い、そして東京電力は私達の信頼を失った。


経験不足

もし菅首相が日本の既存の危機管理システムを使用していたら、より速く、より決断的に事を運べたのではないか。と言う支持者すらいる。

そのシステムは、1986年に作成され、その後の首相らにより強い力を求めた日本の指導者らによって強化された。ホワイトハウスでの危機管理をモデルにし、首相官邸の下にシチュエーションルームを設置までした。このシステムが首相の直接指揮下に様々な省庁から官僚を結集した。ササアツユキ、1980年代後半の内閣安全保障室長は言う。

批評家とサポーターらは同様に、このシステムをバイパスする菅首相の決定は、この大きな規模の危機を処理がほとんど経験のない、首相が信頼する助言者の小さなサークルに頼ることになり、より早く災害の重症度を把握することができなかった、と言う。顧問らは、さらにすべての情報源が利用可能であることすら知らなかった。

これには、緊急時環境線量情報予測システム、またはSPEEDIとして知られている放射線検出器の全国的なシステムが含まれている。テラダ氏と他の顧問は、彼らは事故から5日目の316日まで、そのシステムの存在を知らなかった、と言う。

もし、以前から知っていたなら、福島の原発からの放射性物質が北西吹き飛ばされる模様を、SPEEDIの早期予測を見ることができたはずであると、批評家で、菅首相の派閥議員であるカワウチヒロシ氏は言う。カワウチ氏は、北へ非難した原発周辺の住民の多くは、その地域では冬の間、風が南に吹くこと(北風)を根拠としていた。そのため避難者たちが放射性大気に直接巻き込まれた、と彼は言う。 まさに彼らは放出された放射線の危険にさらされた。

カワウチ氏は言う。彼が、SPEEDIを管理する文部科学省の当局者に、なぜ彼らがこの最初の重要な時に首相が情報を利用できるように手配をしなかったのかと尋ねたところ、彼らは、首相官邸は我々に情報を求めて来なかった、と答えた。

「もっと感情的なことだ。」マツモト氏は、菅首相の事を言う。「彼は、決して官僚を信用しない。」
これは菅首相の逸話の一つだが、1990年代半ばの厚生大臣の在任中、HIVに汚染された血液が自身の厚生省で使われたことを暴露して有名になったのだ。その血液で数百人の血友病患者がエイズで死亡した。菅首相は、官僚と製薬会社担当者が以前から長く、その汚染された血液のことを知っていたことが、わかったのだ。

菅首相にとっては、原子力施設は、経済産業省の官僚と従順な学者らが手助けする公共事業と政治的に癒着し、この種の共謀の最悪例を表している、とマツモト氏は語る。


命令無視

海水の件が、いい例である。

5月下旬の議会で証言の中で、菅首相は、海水の注入が「再臨界」、つまりストレージプールの床に横たわっている溶けた核燃料中でもしくは原子炉心で、核分裂が再開する現象を引き起こす可能性がある危険性を調べるように、顧問に依頼したと話した。マダラメハルキ氏、原子力安全委員会と総理府の原子力保安院の会長が、この「再臨界」の可能性はゼロではないと警告したので、側近らは心配を募らせた、と首相側近は言った。

312日、津波が発生した約28時間後、東京電力の幹部は、作業員に原子炉1号機に海水注入を開始するように命じていた。しかしその21分後、東京電力の幹部は、原発の管理者であるヨシダマサオ氏に、作業の中断を命じた。東京電力幹部は、首相に対する東京電力の窓口の説明に頼っていた。その窓口が、彼は命令に反していたようなことを報告した。

「まあ、それは雰囲気やムードだった。」ムトウサカエ氏、東京電力の副社長は、記者会見で説明した。

ササ氏、1980年代後半の内閣安全保障室長は、言った。「ムード?冗談ですか?気分で意思決定を?」しかし、ヨシダ氏は、その中断命令を無視することにした。海水注入は、原子炉を冷却するために残された唯一の方法で、それを止めるとより深刻な危機と放射性物質の放出を引き起こす可能性を意味する、と専門家らは言った。

ヨシダ氏は、発電所長として決断の権限を持っていた、マツモトジュンイチ氏、東京電力の高官は言った。確かに、国際原子力機関(IAEA)からのガイドラインには、タイムリーな対応が重要である場合、技術的な決定は、工場経営者に委ねるべきであることが書かれてあると、スン・キーヨン氏、最近の日本へのIAEA事実調査団に参加した原子力事故の専門家は言った。

彼は命令を無視していたことが5月に明らかになったが、ヨシダ氏は、原発でのテレビ記者らに対して「海水の注入を中断していたら、死を意味することになっただろう。」と自分自身のことを弁明した。
吉田氏は、56歳、友人によると、えらが張っていて、酒飲みで、真っ正直な人間だが、時には荒っぽい話をするのだそうだ。彼は若いころに剣道の実践者で、また、レイモンドチャンドラーから言葉を引用したり、イタリア料理を料理するのを趣味としている。

「教室では、先生が何かを適切に説明していない場合、自分が満足するまで説明を求めたりしていた。」幼馴染のババマサノリ氏は言った。

菅首相は彼の率直さをおぼえている。首相が津波の翌日に、軍のヘリコプターで原発に視察を行ったときに彼に会っている。彼らは、体制に逆らう意思を共有した。菅首相が薬害エイズ事件を暴露した時するときに持っていたようなものを。そして、同窓生のつながりが非常に重要なこの国で、彼らは同じ大学、東京工業大学を卒業していたことがわかった。

「1、2日後、菅首相は、吉田氏は東電の内部で信用できる唯一の人間だ、と言っていた。」菅首相の顧問であるマツモト氏は語った。

先週、東京電力は、ヨシダ氏の命令無視に対して、口頭注意のその軽い処罰を与えた。


不信と混乱

菅首相の批評家や支持者は同様に、東京電力に対する彼の不信は、十分な根拠があると言う。311日の災害の後、まだ日も浅い頃、東京電力は、首相官邸とは限られた情報だけを共有し、原発での危険性をもみ消そうとした、と彼らは言った。

東京電力は、この記事に関して上級幹部に対する取材を断った。東京電力幹部のマツモト氏は、同社はできるだけの情報を供給したと、記者会見で語った。彼は、東京電力を信用できないと言っている、菅首相についてのコメントを避けた。

菅政府は、東京電力にとって極めて重要な最初の3日間の原発危機の処理に関して、本質的にはまだ手を付けず、その代わりに家を失った数千数百人の救援活動に焦点を当てている、とテラダ氏や他の側近は語った。そして314日、原発の状況の重大さが、2度目の爆発で露見し、今回は3号機原子炉で現れ、そしてその夜の東京電力の清水社長からの「状況が余りにも危険で原発に残れないので工場から作業員を撤退することを許可してほしい。」という驚くような要求内容によって明らかになった。

菅首相はこれを聞き、激怒していたと、側近や顧問らは言った。原発を見捨てるということは、津波に襲われた4つの原子炉の制御を失うことを意味する。そして次の日、残りの2つの稼働中の原子炉、2号機と4号機で爆発が発生した。

「冗談じゃない。」側近によると、首相はそう叫んだそうだ。

彼らは、菅首相は315日の朝早くに緊急会議を招集し、原子炉を守るためにさらに何ができるかを顧問らに尋ねた。そして首相は、彼が2時間以内に東京電力を訪問する計画しているという警告を、かろうじて与えた。

午前5時半、菅首相は、東京電力の本社に入ってゆき、東京電力を監視するために、彼の最も信頼できる側近のひとり、ホソノゴウシ氏を張り付かせた。

菅首相は、5分間、即興の激励を与えた、と彼の補佐官テラダ氏は言った。

「発電所から撤退するとは、問題外である。」首相は彼らに伝えた。

顧問は、ホソノ氏の東京電力への配置は転機となり、原発での被害対策の努力を直接に指揮する首相を支援する体制となった。「初めて、私たちは、東京電力が議論していることを知り、彼らが何を知っていたのかを知った。」匿名を希望するある顧問は言う。

しかし、菅首相の支持者は、この動きが遅すぎたことを認めている。

「我々は、もっと速く動くべきだった。」アリトミマサノリ氏、東京工業大学の原子力技術者で首相顧問は言う。アリトミ氏は、東京電力の内部に駐留する細野氏が居ながらも、東京電力はまだ5月中旬まで、重要な情報を開示しなかったと言う。それは、最終確認を含めて、4つの稼働中の原子炉のうち3つがメルトダウンしていたことである。


同盟国との緊張

乏しい情報の流れとその場限りの意思決定は又、日本に駐留する約50,000人の軍事要員を有する米国と、日本との関係を緊張させた。

日本は、津波の被害者を助けるための米軍の申し入れを、迅速に受け入れたものの、最初の段階のワシントンでの認識では、展開する原子力災害の中で拒絶と誤解を引き起こし、「米国と日本の同盟の危機」を作られていたと、ナガシマアキヒサ、防衛次官は語った。

地震から48時間以内に、米国原子力規制委員会からの職員が東京に到着したが、彼らは情報を得ること、あるいは日本側との会合を手配することすらできなかった。一方、ワシントンは東京は発電所でのダメージを正確に伝えていないと確信したのは、通常北朝鮮の核実験を監視するために使用される航空機や衛星を使い、発電所の周りでアメリカ人が得ていた測定値に基づいていたからだ、と匿名を希望するアメリカ人士官が言った。

この士官によると、オバマ政権は、より多くの情報を共有するために「菅政府に頼る」を決定をした。316日に、アメリカの当局は、駐日大使ジョンV ·ルースを含めて、米国が福島原発から50マイル(80キロ)の地域から避難することをアメリカ市民に助言することを日本側に通知した。その範囲は、その後日本で設定された18マイル(30キロ)の自主的避難のゾーンよりもはるかに広いものであった。

アメリカ人らはまた、彼らの拠点での重要度の低い職員から自主的な避難を始め、より深刻な事態を示唆し、重要な軍事要員すら引き上げ始めた。東京がより多くの情報を供給していなかったからだ。このアメリカ人士官とテラダ氏を含めた補佐官らは言った。

ワシントンと、ますます不安になる最大限の努力をしていた日本の国民に対し誇示するため、菅首相は、原子炉に空中から水を放水するため、軍のヘリコプターを配備した、とテラダ氏や他の日本人顧問は言った。彼らは、ほとんど冷却効果は望めないだろうと分かっていた。317日、テレビで生放送されたそのヘリコプターは、空中から水を放った。しかし、強い風が吹き、ほとんどの水はコースを外れたのも明らかだった。

それでも、テラダ氏は、菅首相が彼の作戦が成功したと伝えるため、個人的にオバマ大統領に連絡を取った、と言う。その日遅くワシントンでは、オバマ氏は日本大使館を訪問し、哀悼の本に署名を行った。これが、首相官邸では、アメリカの大統領による承認のうなづきだと考えられた。

ナガシマ防衛次官は、より良く情報を知らせてほしいというアメリカの要求で、最終的に日本の対応が改善された、と言う。320日、情報を整理し、原子力事故への対応を議論することを目的として、アメリカと日本の政府関係者の間で毎日の会議開催案を菅首相に提示した。

その初会議は、翌日、首相官邸で開催された。ナガシマ氏は、会議は一時間半続き、通常は約50人が関与し、米国の原子力規制委員会、米国大使館や軍関係者だけでなく、政治的指導者、延べ5省庁、原子力機関、そして東京電力から成る大きな日本側の人間を含んでいた、と言う。その会議は、ホソノ氏が主導した。原発関連の対応では首相のキーパーソンになっていた。

ナガシマ氏は、さらに重要なのはアメリカ人らがこの会議に到着する前に何が起こったかである、というのは、日本人らは1時間前から集合し、情勢を議論し、何をアメリカ人たちにに伝えるかを練り上げていたのだ。と述べた。ナガシマ氏は、様々な省庁や東京電力、議題を設定した政治家とともにこのような会議が開かれるのは、この大災害以来初めてのことである、と言った。

「日本側は、皆を同じ部屋に招集できるのを必要とした。」ナガシマ氏は語る。「今回の米国の刺激は、日本が災害対策管理体制を改善するためのいい機会となった。」
(終)

Kantaro Suzuki 記事寄稿)

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